熊本市 DELTA WORKS のメンバーがお届けするCMS制作日記と日常の変なこと
14 2月
ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、私は「存在=振動」と捕らえている。つまり、振動していないものは存在していないのと同義語であると考える。
例えば、有機体であれば分子はブラウン運動を 繰り返しているし、無機物でも電子は活発に動いているらしい。見たことねーけど・・・。それらがお互いに共振して作用反作用が生成されるところに「存在」が生まれる。
全ての振動が停止した絶対零度状態では、物は存在していない・・・というのはちょっと極論だが、生命としての存在はそこには無いだろう。んでもって、例えば私の妻は占い師でもあるが、彼女が占う時に、対象者との間にシンクロ現象が生じていると考えている。占いって、何で占うかが重要なのではなく誰が占うかの方が重要だもんねぇ。
でだ、還元論的な考え方するとすると、物自体が相対的にしか存在しないとして、精神も同じように相対的な存在であると考えられるから、それらが共振したところで、相手の気持ちや無意識下におけるコンプレックスなんかが見えちゃうのかなーと思うのね。
しかしまあ、それって、占い師である彼女だけの特権ではなく、私でもある程度分かる事がある。初めて会った人でも数分話しただけで、その人の抱える問題なんかが分かるのね・・・いや、単なる感ですよ。でも、それって結構的中率が高くて、確率論的な説明では説明のつかない事も多い。
そーゆーことが日常にあったりすると結構楽しいよねー。
17 12月
「我々の周りには奇跡が満ち溢れている」
それは基本的な私の考え方だ。
その奇跡に気づくことが出来る人は幸いである。しかし、その奇跡に気づけない我々がそこに存在している事も事実であり、その気づけないことにはそれなりの理由が存在するのだろう。
例えば、過去世というものが存在していて、そこに関する記憶を我々が持っていたとしよう。そうすると、我々の命が永遠であることを知っている事になる。いや、永遠でなくともやり直しが出来るかもしれないという実感を持っていることになる。
そうなると、この世に関する感覚が変わるわけだ。「今生で出来なくても来世があるさ」的な感覚を持てば、今生で努力する必要性は下がってくる。ゼロから(記憶がない)やり直しているから、本質的に変化も可能だと思えるのだ。
実生活に置いても、記憶が鮮明すぎて困ることは多い。昔のコンプレックスや、失敗の苦しさから逃れることが出来ない。
人は、睡眠中にその日あったことを整理して必要な記憶と不必要な記憶を分類しているのだと聞いたことがある。基本的に、その人の体験したことは脳の中にホログラム的な状態で記憶されている。
従って、全ての記憶が脳に刻み込まれている可能性が高いが、もし、記憶が全て並列に意識化される状態であれば大変な事だ。幼児期のトラウマも最近の出来事も同次元で意識に影響する。これでは、意識の統合が出来ない。
そこにあるのは混沌とした情報の渦であり、カオスである。
記憶は睡眠によって整理され統合され、意識と無意識下に分類される。それによって、記憶は、一定の方向性(この場合意思ね)によってコントロールされるのだ。
しかし、人格に問題があり、そのコントロールが出来なくなると、記憶さえも変化してしまう。
話を戻すと、我々は奇跡を奇跡として認識することによって、その奇跡を持って物事の基本的な判断材料としてはいけないのではないかという事である。「存在の奇跡」「愛の奇跡」色んな奇跡はあるが、それは、我々がその仕組みを知らないからこそ存在し、我々の存在を存在たらしめているものであるが、それと同時に、我々の存在とは次元の違う世界でのオーダーであり、「下位のシステムは上位のシステムが理解できない」という、基本的な命題を負っている。
ちょっとわかりにくいなー。
ま、かんたんに書けば
「あのさ、確かに俺達は俺達がどうして存在してるのか?なんてわかんないんだよね。で、俺達を作った存在ってのがあったとしてさ、それを神って呼ぶじゃん。で、例えばコンピューターが、それを作った人間の事を理解できないように、人間も神の事理解できなくて当然じゃん。だから、‘神様がこういった”とか‘神は怒っている”みたいなこと言うのってナンセンスじゃん。そういう意味では、神は何にもしないと思うんよね。人格神というのは、どうにも俺にはりかいできないんよね。確かにそーゆーのがあったほうが分かりやすいし、面白いんだけど、目に見えないものを人間が見るときは、その人のフィルター、つまり、環境とか価値観で違って見えるってだけだと思うのよ。だから、それによって、自分を動かすより、自分の中の良心にそって動いた方がいい様な気がするのね。そーゆーの仏教では仏性ってよぶんだっけ」
ってかんじかな。
10 6月
一応、週末に起きたことを書いたんですが、主観的な部分が欠落していますので、気功師さんから「悪魔」と呼ばれるのを覚悟して自分の感想を書いておきます。
「どうやって修行すればいいんでしょう?」
とたずねた青年の話を聞きました。
そこで、お坊さんが答えた内容がイカしています。
「あ、修行したいんだったら東京にもどったら?新宿や歌舞伎町で普通に生活できたほうが、ずっとすごいよ。寺は修行するために色々用意してあるから楽だよね。それに比べたら都会で暮らすほうが厳しいよ」
その通りだと思います。いわば全てのものはすでに用意されているのだということでもありますね。なんとポジティブで深い言葉でしょう?(字面だけ読むとちょっと間抜けな答えに見えるけどさ)
19 5月
私自身は現実的な人間だと自分のことを考えている。
確かに気功師さんの話や、身の回りに起きる不思議なことは一見すると現実離れしているように思われるが、それは現実が相対的に存在するからに他ならない。
つまり、私が知っている現実と気功師さんの現実は自ずと違うのだ。それぞれがそれぞれの現実を生き、その集合体として全体の現実が形成されていると考えたほうが自然であると思っている。 認識の方向性で、現実は変容を遂げる。
もっと平たく言うと「何を信じるかで現実は変わる」と言うことだ。さらに言えば「願えばかなう」に通じる。 従って、気功師さんの言う現実が自分の現実だとも思わない。自分には何も見えないし、何も感じられない。従ってそれは私にとっては妄想でしかない。
しかし、この妄想でしかない世界も、ひとたび自分自身の立地点が変化すれば現実へと変化する可能性を持っているのも事実だ。 従って、それら妄想を全て馬鹿にして受け入れないというのは、実に硬直した精神でしかないと思う。
もう少し基本的な私のスタンスを突っ込んだ形で述べれば、「目に見えないもの」は見えてはいけない必要があって目に見えない」のではないかと思 う。例えば予知であるとかテレパシーであるとか、それらを与えられていない我々は、逆説的にいうならそれらから自由であるとも言えるのだ。
もし、知ってしまえば、問題を回避できる。しかし、回避するという行為自体が、その人の成長を遅らせる結果となる場合も多い。 分からないから努力したり、傷ついたり、反省したり、苦しんだり、悲しんだりすることが可能だとも思うのだ。それら、一見ネガティブに見える事象が如何に我々を豊かにしているかということも知らねばならないのだろう。
4 4月
昨日は休みをいただいて(ちゅうか、自営業なので勝手に休み作った)霧島のDr.Fuuuさんに会いに行った。
Dr.Fuuuさんとは、細野晴臣のライブでほんの5分くらいお話しただけで、会ったことが無い。
ただ、そのときの印象で、
「あ、これはもう一度会わなければいけない」
という確信があった。
まあ、こんなときの確信って根拠は何も無い、いわゆる直感だ。単なる思い込みといっても良いかもしれない。
しかし、たまにはこうーゆー直感・・予感・・は大事にしたほうが色々面白いことが起こる。
2日当日は、阿蘇での仕事があったため、夕方からの出発になった。車でいけるところまで行って、そのまま車の中に泊って、翌朝会いに行こうと思っていた。
同行したのはゆみさん。
途中、八代の繁華街で食事を摂り、高速を使わず人吉に入る。それにしても球磨川沿いの道は夜中走ると町の明かりも少なくどこと無く不気味な感じがする。
人吉で一泊しようかと考えていたが、途中クラフトパークまで来たところで、Dr.Fuuuさんから電話が入った。
「夜の1時頃まででしたら起きていますので、どうぞおいでください」
「いえいえ、こちらはワゴン車で来ていますので、深夜でご迷惑でしょうから車のなかで泊まる予定です。」
ちなみに、ワゴン車というのはうそだ。実際は小さな軽自動車(R1)で向かっている。ワゴン車を借りる予定もあったが、ナビが壊れてたので、自分の車を使用した。
「霧島は寒いですから、どうぞ、遠慮なくおいでください」
「いやもう、大丈夫ですよ。ただご心配かけるといけないので、一応到着したら電話しますね。」
ということで、急遽人吉インターまで戻り高速に乗って向かうことにした。
20 2月
先日のペマでオーラ写真をまたまた撮影していただいた。ま、オーラは相変わらずでかくて黄色を中心に光っていたわけだけど、その鑑定していただいた人が
「あ、なんかすごいですね。あ、これは・・ええとあの、私、浅川さん見て、あの何か人と違うもの感じてたんですけど、確信しました。ええと、言いにくいんですけど浅川さんって宇宙人じゃないですか?わたし・・そうかなっと思ったんですけど、きっとそうです。」
・・・・・・・・・・
うふふふふふ。今度は宇宙人になってしまいました。さらにその日、色々見える人からは、「さっきから浅川さんと話してると、平賀源内って名前が出てくるんですよ。浅川さん平賀源内じゃないですか?」と尋ねられた。
どはははははは。
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中山さんからはチベット関連で憤怒神がバックに居ますねって言われた上に、ペマでの前世占いでは「国民を間違って皆殺しにした霊的指導者」と言われ、ますます混迷の度を増す私の正体であった。
13 11月
てなわけで、日本の神様、インドネシアの神様、チベットの神様、ヨーロッパの神様と、神様には種類があるわけですよね。なーんでかな?と思っていたらふと思いついた。
あ、そーか、神様とか真理とかそーゆーのは、基本的には同じものだよな。でも、それらの現れ方が人種や、地域で違うのって、結局、それを認識する我々人間のフィルター違うからだ。
何か、言葉に出来ない存在を我々が感じたとき、それを表現するためには、その受動者の感覚や、知識によってフィルタリングされて伝えられるわけよね。
だかーら、沢山神様の種類があるんだ。なーんだ、実は全部同じものが色んな角度で現れてるに過ぎないんだ。そーか、そーか。
とまあ、思った訳です。
ということは、マホメッドもキリストも仏陀も、みーんなお友達じゃん・・・(ひーーーー。ちょっと危険な発言)なのに、みんな喧嘩してるのは、やっぱりそれらのイメージに対する人間の読解力のなさが大きな原因のひとつなのかしらねぇ。
21 9月
またもやぼーっと「オーラの泉」でも見ていたら、続いてローカル番組の「ドーモ」でもスピリチュアル特集だった。その中でオーラソーマをやっている熊本の方が出ていたので、ウェブで探して自分でもやってみた。
結果は以下の通り。なを著作権は上記ウェブサイトにあります。
一本目 魂のボトル(あなたの本質を示します)
知的で、気品に満ちています。自己の深い部分を見つめることのできる人。シックスセンスに優れたあなたは、高次な存在とコミュニケーションを図れ るでしょう。内なる権威を宿し、自分を信頼しています。深い叡智と平和の心で、物事を冷静かつ的確に見極めることができます。力強い精神力と根本からの自 己信頼を持ったあなたは、明るくポジティブなエネルギーを周囲に与えるでしょう。一目置かれる存在として、自然と影響力を発揮します。
ボトルNo 097
ボトル名 大天使ウリエル
カラー ゴールド/ロイヤルブルー
二本目 チャレンジ&ギフトのボトル(あなたの過去と乗り越えるべき課題を示します)
心の内側に争いの芽を宿しています。かつて深い苦しみや痛みを経験し、それを乗り越えることができずにいるのかもしれません。強烈な感情を持て余 しています。常に内面は混沌とし、混乱しています。考え方と行動とのバランスが取れない状態。ひどく攻撃的になったり、もしくは卑屈になったりと、極端な 反応を取ってしまうことがあるかもしれません。自分をコントロールできず、心に平和を見出すことができずにいます。
ボトルNo 102
ボトル名 大天使サミエル
カラー ディープオリーヴ/ディープマジェンタ
三本目 「今ここ」のボトル(現在の状態と気づきを示します)
本来持つ、感受性やクリエイティビティに目覚めるとき。言葉ではない、感覚的な表現方法を通じて、自分の感性が開かれていくでしょう。絵、音楽な どの芸術を通じて、心が解放されるはず。また、コンピューター関連の取り組みも奏功。たとえば、ホームページを作成するなど、自由な表現が心の解放につな がるでしょう。直感力が開発され、創造的な能力で自分の世界を広げていきます。自由でのびのびとした感性で人生を謳歌できるでしょう。
ボトルNo 085
ボトル名 タイタニア
カラー ターコイズ/クリア
四本目 未来のボトル現在の状態からどう変わっていくか、未来の可能性を示します)
コミュニケーション能力が研ぎ澄まされます。人生に意義や価値を見出すことのできたあなたは、内面に深い平和と愛を携えています。愛も、友情も、 快楽も、すべてを軽やかに手にすることができるでしょう。世界の美しさも、醜さも全部汲み取り、浄化し、生きる叡智とパワーに変えていきます。深い愛情と 豊かな表現力を兼ね備えたあなたは、ハートの真実に気づいています。人と人との潤滑油的な存在として、平和の架け橋となれるでしょう。
ボトルNo 103
ボトル名 大天使ハニエル
カラー オウパレセント・ペールブルー/ディープマジェンタ
4 9月
「麻ことのはなし―ヒーリングヘンプの詩と真実 」
中山 康直
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上記のような本を書いている中山さんとお会いした。少しお話も出来たが、リーディングも出来るらしく
「あ、チベット関係ですね。それに色んな両面を合わせ持っていますね。男性性と女性性、善と悪、それら両面をバランスとって実践しているかんじです。」
とのようなこと云われました。さらに
「この世にあなたは遊びに来てますね。「遊び」が重要です」
とも・・・「あははははは。遊びに来ているんだ。」何となく納得です。
24 6月
マイサの娘で元の従兄弟のラビちゃんが事務所にやってきた。マイサが本格的に音楽活動を始めるので、マックでの音楽環境の作り方を教わりに来たわけだ。
彼女は、学校に行っていない。いわゆる積極的不登校。マイサの元で色んな経験をして、インドやネパールと日本の間を行ったり来たりしていた。
そうやって、続けていた旅ももはや終息の時期となり、今は土と共に生きる生活に戻ってる。
昔、畑の手伝いをさせられていた時には感じなかった、「生き物を育み、その循環の中に自分も居るという事実を感じることで、今は大きな喜びになっている」というセリフは実に生き生きとした言葉だったなぁ。
僕は、命の本質は「生きろ、そして生かせ」だと思う。
この「生きろ」には、自分をしっかり持ち、自分のやり方でよく生きるという意味、そして「生かせ」は自分以外のものを「生かせ」という意味だ。
一見すると、「生きろ」と「生かせ」は相反する側面があるように思われる。しかし、自分勝手に生きるならば、そのつけは自分に戻ってくる。
自分らしく生きながら、周りも生かす(活かす)事をしなければ、やはり意味のない事になるのだ。その場合の「周り」とは人を含めた、全ての生き物をも含むことになる。
さらに明確にするならば、自然(これには人も含んでるよ)のサイクルの中での循環を意識し、その中に在って、それぞれを活かし、自分も活かされる環境を作り上げることが一番大切なのかも知れない。
そう考えると、自分の今の状況というのは、まだまだ、アンバランスだ。少しづつ軌道修正するべきだろう。
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