スピリチュアル

昨日はMIXIで見つけた流術という治療を受けてきました。

朝起きて顔洗って普段はスペインに住んでいるという整体師きんさんのご自宅に向かった。整体師きんさんは、たまたま帰省中で、その間実家で施術してくれるということ。整体や気功のようなものをベースにしたオリジナルの治療法を編み出したという。
ナビを頼りに自宅の前に車を停めると白い飼い犬君に吼えられた。ワンギャン吼えるその声で整体師きんが気づいて玄関から出迎えにいらっしゃった。まだ、若くて好青年風。
挨拶して、玄関より上がらせていただいた。
まずは自己紹介して、話し始めたら止まらない。いろんな心と体のこと、をお話していたら1時間ほど経ってしまった。
あまりお邪魔しても申し訳ないので、施術に入ってもらう。
まずはいすに座り、足先から始まる。軽く指を当て、ポイントをサーチしていく。
「違和感や痛みがあったら言ってくださいね」
「ハイわかりました。」
足の親指あたりに痛みがあったのでそのことを告げるとなにやら、体のあちこちを触れたり手をかざすように動かしている。
「どうです?まだ痛みありますか?」
「あ、そうですね。まだ少しありますが、さっきよりは緩みました。」
「わかりました。ではもうすこし。」
さらにあちこちを触っている。いわゆる中国整体みたいに強くもんだりはしない。
「どうです?」
「ああ、違和感は消えましたね」
施術は足からだんだん上部のほうに向かってきた。
「じゃあ、立ってください。」
「はい。」
立ち上がった私の横腹・胸・肩・首筋と彼の指が滑っていく。力はほとんど入れていない。体の各所で痛みを感じるところがあると、その周辺を重点的 に施術していく。その間、私の両手をあちこちの部位に触らせる。イヤミのシェーをみたいなカッコウとか、日本代表がフリーキックの時に股間をプロテクトす るような格好とか・・・そんな色んな格好で施術は続く。
そのうち足がしびれてきた。立った状態で足がしびれるというのも変な感じだ。
「どうしました?」
「いやああ、足がしびれてます。」
「ああ、降りてきてるんですね。」
「あ、降りてるんですか?」
「それじゃあ、ちょっとジャンプしてください」
「あ、ジャンプですね」
私は、畳の上でなるべく高くジャンプした。
「あ、そんなに飛ばなくてもいいです。軽くでいいですよ。」
「はあ、そうでしたか・・」
何度かジャンプした。その間彼は私の親指に触れていた。痺れが消えた。そうして一応の施術が終了。体の各所の違和感がなくなり身体感覚が戻ったような感じだ。
パソコンの仕事をしていると、だんだん身体感覚が消えていく。自分の尻とか腿とか、つま先とかそんな部分に関する意識が消えていくのだ。あるのは脳みそとキーボードを叩く指だけ。それが、元のあるべき感覚にもどった感じだ。
なかなか面白い。
彼の話では、詰まっているエネルギーのチャクラを開いて、流してやるということ。だから「流術」なんだなと一人で納得。特に、痛みには効果が高い との事だ。体験したように一瞬にして痛みがなくなる。彼の話では、身体的な問題だけでなくもしかすると鬱などの症状にも効くのではないかといっていた。
面白い。
ということで、いろいろお話して帰ってきました。ありがとう整体師きんさん。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=604244
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シンクロナイズドライフ

 まあ、話半分に聞いてください。 
 
私の妻は占い師でもああるが、占いという職業は結構因果な仕事だ。 
 
彼女の能力というのは、他者とのシンクロにあると思うが、それは、占い師としては非常に重要であるのと同時に、いろんな問題なども引き起こす。 
 
先日の深夜どうも彼女の様子がおかしく、もめ始めたんだが、やっぱり普通じゃない状態。ある程度彼女の様子が落ち着いた時に、彼女を見て私は尋ねた。 
 
「今日、だれか若い子に会っただろ?子供に近い年齢だ。」 
「会った。」 
「どんな子だった?」 
「二十歳くらいで、心に問題を抱えた子。」 
「やっぱりな・・・・。」 
「なんで?」 
「いや、感じたんだ。その子は見かけより幼く見えるはずだろ。」 
「うん。ずいぶん幼い感じ。」 
「女性だろ?」 
「うん。それで自殺願望があるみたい。」 
「そうか・・・わかった。多分、ついてきてるぞ。それで、最近ちゃんとプロテクトしてないだろう?」 
「うん。今日は忙しかったから、お清めするの忘れた。」 
「ちゃんと、儀式をすることで切り替えしないと今日みたいなことになるぞ。」 
「うん。そうする。」 
 
と、いう感じ。 
 
まあ、僕自身がその子供のことを言ったのは、単なるあてずっぽうである。従って、単なる偶然であるかもしれないし、確率論的に考えれば、偶然では割り切れないことかもしれない。 
 
ただなんというか、こーゆー事は普通にあることのようにも思うんですな。人間が元々持っている感覚なんだろうなぁ。 
 
ということで、今彼女は大阪でチベットピースアート展のために動き回っているはず。メールや電話がないということは、相当楽しんでいるはずだ。ははは、このようなことは、感ではなく、簡単に推測可能。 
 
向こうで、たくさんの人に会ってテンション上がってるのが手にとるように見えるぜ。へっへっへ。 
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人との出会いは突然である

人との出会いは突然やってくる。今から語ろうとする友人ともそうだ。
きっかけは元妻からこんなメールが来たことから始る。
「細野晴臣好きだよね。MIXIで知り合った人が福岡の西南学院でのライブチケット手に入るって言うから必要だったら連絡入れるよ」
ありがたい話である。田舎に住んでいると生細野など、なかなか見れるものではない。二つ返事でお願いした。
その会場であったのがFさんという整体師。元々、音楽業界に居た関係で、音楽業界にコネクションがある。会場では軽く挨拶をしただけ。しかし、その時、
「ああ、これはまた必ず会わなければいけない」
という予感がしたのだ。まったくもって、裏づけなど無い。単なる直感。しかし、その後、この直感は間違いなかったことになる。
それ以降、ほとんど連絡を取る事は無く1年近くが過ぎたある日、また直感がした。
「そうだ、Fさんに会いに行こう」
すでに夕方近かったが、急いで準備して、そのとき彼が移り住んでいた鹿児島の霧島に行くことにした。あまりに急だったので、その日は車の中で一泊して、翌朝会うつもりで居た。しかし、自宅の近くについた時点で電話を入れると23時を回っていたにも関わらず「是非自宅においで下さい」とのこと。非礼をわびて自宅に上がりこんでしまった。ほとんど初対面にもかかわらず、そのまま朝の5時まで話し込んだ。
話してみると、お互いの知り合いが多く重なっている。尋常でない数。なぜ、今までFさんと会わなかったのかが不思議なくらいだ。
しかし、それには理由があるのだろう。今の時期に会うようにプログラムされていたとしか考えられない。
この出会いはFさんに関しても意味があったようだ。その意味を説明するのはとても難しいが、とにかく必要があってそうなったとしか言い様がない。
それ以降、私の結婚式の翌日うかがったのもFさんの家だ。一緒に美輪明弘の音楽会に行った。
さらには、元妻と今妻と子供達全員で行った旅行先も彼の家だ。
先日は、彼ら夫妻が突然自宅に来た。これにも意味があった。それは彼らの仕事でもある整体に関することだ。はじめ、なぜ彼らが突然やってきたのかその必然性の理由が分からなかったのだが、今はわかっている。彼の生き方にもしかすると大きく変化がおきるかもしれない。
人と人は、そーやって影響を与えながら共振して変化していく。面白いじゃないか。これからもまた色んな事が起きるだろう。
重要なのは、その存在や行為の意味に気づくことが出来るかだ。それに気づくと豊かになれる。ほら、奇跡なんてそこらにたくさん散らばってるだろ。散らばっている奇跡を拾い集めるとたくさんのプレゼントがやってくるぜ。
 
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猫の行方不明と父の意識不明

 
愛人の猫が居なくなった。彼女との付き合いは長い。かれこれ15年以上になると思うが、ある日ふらっとやってきて、そのまま居ついてしまった。特に離婚後一人住まいだった時には、一緒に寝起きして、会話していた仲だ。しかし、最近は体力の衰えが激しく、このままでは、あまり持たないだろうと考えていた。
事件が起こったのは土曜日の夜。
私の家族と今の妻の家族とで会食をしているときに起こった。
食事の最中、80才になる父が一瞬意識不明になったのだ。イスに座ったままはじめは居眠りしているのかと思ったが、様子が変だ。顔色がおかしく、脂汗をかいている。声をかけても反応しない。仕舞いには、目が反転して白目をむいていびきをかき始めた・・・典型的な脳溢血の症状だ。
慌てて、救急車を呼んだのだが、5分後に突然父が意識をとりもどした。
「おとうさん。いまちょっとおかしかったので救急車呼んだからね。」
「なんだ?いや、私は眠くて寝ていただけぞ」
「いやいや、そんな状態じゃないよ。あまりにおかしかったから一応病院へ行こう。」
結局、病院での診察結果は異常なし。まったくもって、健康体そのものということ・・・しかし、確かに意識不明であった事は間違いない。同席した妻の妹夫婦は、老人医療関連のホームを経営しており、こういった状況には何度も遭遇しているのに、彼らの方が慌てていたくらいだ。
その、父が意識不明だったときに、一瞬、猫の映像が脳裏でフラッシュバックした。
その時、ある思いが心の中で生まれた。
「あ、さとちゃん(猫の名前)逝ってしまったかも・・?」
事を終え、自宅に深夜に戻った。案の定、さとの姿が見当たらない。普段なら車庫の中で我々の帰りを出迎えてくれ、一緒に部屋に入るのが常であるが、いつも居るはずの場所にも居ない。家の周りを随分探してみたが見当たらない。数日たった今でも見つからない。
やはり、逝ってしまったのだろう。
「さと、色々とありがとうね。君の事は忘れないよ。」合掌。
PS,父は健康が一番の自慢であり、今日行われた「天草パールラインマラソン」に参加するのを最大の楽しみにしている。もちろん、今年の参加はやめるように勧めたが、聞く耳は持っていない。結局参加して、10キロ完走した。
 
 
 
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オーラビデオステーションでオーラ写真を撮る

今日は、妻のイベントお手伝い・・・妻は占い師もやっていて、スピリチュアル・イベントでオーラ写真を撮ることになった。
なぜが熊本市の某所のパソコン教室(アロマテラピーや、気功教室もやってる)の一室で、自己啓発セミナーのアトラクションとしての参加だ。オーラビデオステーションという機材を設置して、PCとセンサーの具合を調整する。システム的には、オーラビデオステーションからワードに一端詳細なレポートが生成され、オーラビデオステーションの制御で印刷するページを管理するというやり方。結構、システィマティックに動いている。
前日基本的な構造とオーラの解析内容を頭に叩き込んでおいたので、問題は無い。
オーラビデオステーションはフルセットを買うと140万近くする、なかなか高価なものだ。構成は、PCとソフトとセンサーおよびプリンター。USBにつながれたセンサーの間にドングルが入り二次利用が出来ないように工夫されているビデオカメラも接続可能だが今回は使用しなかった。
センサーは左手を置くようにできており、その表面には金属の端子があり、それによって通電抵抗ないし、静電容量などを計測していると予測できた。確かに手にある経絡(つぼ)は体全体の経絡と連携しており、手の経絡の状態を分析することで、体全体の状況をシュミレーションしているのだろう。

開場された時点ですでに20人ほどの予約がはいり、人気の高さが伺えた。私自身は、オーラビデオステーションによる撮影と簡単な説明を受け持ち、実際の解析は妻が行うという手順だ。
私自身も何度か解析をしているのだが、環境や精神状態でオーラ自体のエネルギーレベルは結構変化する。当日も午前中と午後ではパーソナルカラーと呼ばれる基本的な色が変化していた、午前中は青がベース、そこから緑が混じり、午後には普段のベースカラーである黄色になった。チャクラの状態としては、サードアイ(第三の目)の部分が以上に高レベルでちょっとバランスが崩れている印象を受けた。
まあ、測定器ではじき出されたた結果というものはあくまでも数値的な結果である、そこからそれをどう解釈するかの方が重要だろう。しかし、面白い機械であることは確かだ。話のネタにはなるね。
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宗教の勧誘初体験

娘のブログ読んでいたら面白い記事があった。皆さんも気をつけましょう。
http://tyoutugai.jugem.jp/?eid=291
 
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「存在」=「振動」である?

ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、私は「存在=振動」と捕らえている。つまり、振動していないものは存在していないのと同義語であると考える。
例えば、有機体であれば分子はブラウン運動を 繰り返しているし、無機物でも電子は活発に動いているらしい。見たことねーけど・・・。それらがお互いに共振して作用反作用が生成されるところに「存在」が生まれる。
全ての振動が停止した絶対零度状態では、物は存在していない・・・というのはちょっと極論だが、生命としての存在はそこには無いだろう。んでもって、例えば私の妻は占い師でもあるが、彼女が占う時に、対象者との間にシンクロ現象が生じていると考えている。占いって、何で占うかが重要なのではなく誰が占うかの方が重要だもんねぇ。
でだ、還元論的な考え方するとすると、物自体が相対的にしか存在しないとして、精神も同じように相対的な存在であると考えられるから、それらが共振したところで、相手の気持ちや無意識下におけるコンプレックスなんかが見えちゃうのかなーと思うのね。
しかしまあ、それって、占い師である彼女だけの特権ではなく、私でもある程度分かる事がある。初めて会った人でも数分話しただけで、その人の抱える問題なんかが分かるのね・・・いや、単なる感ですよ。でも、それって結構的中率が高くて、確率論的な説明では説明のつかない事も多い。
そーゆーことが日常にあったりすると結構楽しいよねー。
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気功師さん考

「我々の周りには奇跡が満ち溢れている」
それは基本的な私の考え方だ。
その奇跡に気づくことが出来る人は幸いである。しかし、その奇跡に気づけない我々がそこに存在している事も事実であり、その気づけないことにはそれなりの理由が存在するのだろう。
例えば、過去世というものが存在していて、そこに関する記憶を我々が持っていたとしよう。そうすると、我々の命が永遠であることを知っている事になる。いや、永遠でなくともやり直しが出来るかもしれないという実感を持っていることになる。
そうなると、この世に関する感覚が変わるわけだ。「今生で出来なくても来世があるさ」的な感覚を持てば、今生で努力する必要性は下がってくる。ゼロから(記憶がない)やり直しているから、本質的に変化も可能だと思えるのだ。
実生活に置いても、記憶が鮮明すぎて困ることは多い。昔のコンプレックスや、失敗の苦しさから逃れることが出来ない。
人は、睡眠中にその日あったことを整理して必要な記憶と不必要な記憶を分類しているのだと聞いたことがある。基本的に、その人の体験したことは脳の中にホログラム的な状態で記憶されている。
従って、全ての記憶が脳に刻み込まれている可能性が高いが、もし、記憶が全て並列に意識化される状態であれば大変な事だ。幼児期のトラウマも最近の出来事も同次元で意識に影響する。これでは、意識の統合が出来ない。
そこにあるのは混沌とした情報の渦であり、カオスである。
記憶は睡眠によって整理され統合され、意識と無意識下に分類される。それによって、記憶は、一定の方向性(この場合意思ね)によってコントロールされるのだ。
しかし、人格に問題があり、そのコントロールが出来なくなると、記憶さえも変化してしまう。
話を戻すと、我々は奇跡を奇跡として認識することによって、その奇跡を持って物事の基本的な判断材料としてはいけないのではないかという事である。「存在の奇跡」「愛の奇跡」色んな奇跡はあるが、それは、我々がその仕組みを知らないからこそ存在し、我々の存在を存在たらしめているものであるが、それと同時に、我々の存在とは次元の違う世界でのオーダーであり、「下位のシステムは上位のシステムが理解できない」という、基本的な命題を負っている。
ちょっとわかりにくいなー。
ま、かんたんに書けば
「あのさ、確かに俺達は俺達がどうして存在してるのか?なんてわかんないんだよね。で、俺達を作った存在ってのがあったとしてさ、それを神って呼ぶじゃん。で、例えばコンピューターが、それを作った人間の事を理解できないように、人間も神の事理解できなくて当然じゃん。だから、‘神様がこういった”とか‘神は怒っている”みたいなこと言うのってナンセンスじゃん。そういう意味では、神は何にもしないと思うんよね。人格神というのは、どうにも俺にはりかいできないんよね。確かにそーゆーのがあったほうが分かりやすいし、面白いんだけど、目に見えないものを人間が見るときは、その人のフィルター、つまり、環境とか価値観で違って見えるってだけだと思うのよ。だから、それによって、自分を動かすより、自分の中の良心にそって動いた方がいい様な気がするのね。そーゆーの仏教では仏性ってよぶんだっけ」
ってかんじかな。
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気功師さんの話(ライトネス・アンド・ダークネス)感想

一応、週末に起きたことを書いたんですが、主観的な部分が欠落していますので、気功師さんから「悪魔」と呼ばれるのを覚悟して自分の感想を書いておきます。

力を持つということはリスクも一緒に背負い込むことを再確認しました。
例えば、人に見えないものや感じられないものを感じる力というのは、ややもすると現実から遊離しているが故に本人自身も現実を見失ってしまう可能性が高いということですね。 状況は、ゆっくり進行するのですが、ある臨界点を超えると一気に加速します。 その臨界点とは、物事の価値基準を自分ではなく他者や他のものに預けたときに起こりやすいと思います。つまり、自分で判断したのではなく、「神がそういった」とか「ここにそう書いてある」などの台詞が出てくるとヤバイです。
 
道を説く場合、善悪における2元論は分かりやすいのだが、危険性も伴う。
物事を判断する場合、良き事、悪いことというカテゴリーで判断出来ることは実はあまり多くは無いと思います。良いこと悪いことの価値基準は、その観測者が人間であるという前提に決められている場合が多く、視点を変えると簡単にその事実が逆転するのだという認識が必要です。 例えば、毒虫を殺虫剤で殺すことは人間にとって良いことですが、毒虫にとっては迷惑はなはだしいです。彼らにも生きる権利はあります。
 
命の大小にその優劣は存在しない。
どうしても、分からないんですが、我々人間だけが神の子であるはずはない様な気がするんです。生きとし生けるもの全てが同じ生命の連鎖の中で存在する同等の価値を持ったものではないかと思いました。
 
なーんでこの町に?
これは話の中での疑問の一つですが、こーんなちーっぽけな町を悪魔が占拠しようとしているのか分かりません。しかも、そのまちにキリスト十二使徒の生まれ変わりが沢山居るというのも理解できません。その根拠がわからないからです。
 
神と悪魔という究極的な命題を持った人には何を伝えようとしても無意味だ。
[...]


目に見えない力について

私自身は現実的な人間だと自分のことを考えている。
確かに気功師さんの話や、身の回りに起きる不思議なことは一見すると現実離れしているように思われるが、それは現実が相対的に存在するからに他ならない。
つまり、私が知っている現実と気功師さんの現実は自ずと違うのだ。それぞれがそれぞれの現実を生き、その集合体として全体の現実が形成されていると考えたほうが自然であると思っている。 認識の方向性で、現実は変容を遂げる。
もっと平たく言うと「何を信じるかで現実は変わる」と言うことだ。さらに言えば「願えばかなう」に通じる。 従って、気功師さんの言う現実が自分の現実だとも思わない。自分には何も見えないし、何も感じられない。従ってそれは私にとっては妄想でしかない。
しかし、この妄想でしかない世界も、ひとたび自分自身の立地点が変化すれば現実へと変化する可能性を持っているのも事実だ。 従って、それら妄想を全て馬鹿にして受け入れないというのは、実に硬直した精神でしかないと思う。
もう少し基本的な私のスタンスを突っ込んだ形で述べれば、「目に見えないもの」は見えてはいけない必要があって目に見えない」のではないかと思 う。例えば予知であるとかテレパシーであるとか、それらを与えられていない我々は、逆説的にいうならそれらから自由であるとも言えるのだ。
もし、知ってしまえば、問題を回避できる。しかし、回避するという行為自体が、その人の成長を遅らせる結果となる場合も多い。 分からないから努力したり、傷ついたり、反省したり、苦しんだり、悲しんだりすることが可能だとも思うのだ。それら、一見ネガティブに見える事象が如何に我々を豊かにしているかということも知らねばならないのだろう。
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