バイク事故シリーズ
大学生の時にバイクで事故った13(最終話)
ギブスに固められた右足をいたわりながら実家に帰りながら思った。
「あ。ギブスにすると痛くないな」
当然である。
それまでの痛みは嘘のように消え、松葉杖をつきながらではあるが、揚々と帰宅した訳だが、そのあとどっと疲れが出た。その疲れというのは、どちらかというと肉体的というより精神的なものであった。
「え、じゃあ、この1ヶ月はなんだったんだー!」
やっと少しだけ怒りがこみ上げてきた・・・・・・遅い!
しかしながら、私は怒りを持続させる事が性格的に出来ない、しばらくすると、怒りも収まり、部屋で寝転んでいたのだがどうにも体がだるい。
そういえば、骨折からすでに4ヶ月以上経っているにも関わらず、体力が戻っていない。なーんだか、いつもからだがだるくて長時間おきていることができない。
思い出してみると、入院中、左わき腹に痛みがあり、検査も受けたのだがそのときは、
「胃腸はきれいだよ、多少、肝臓の機能が落ちているね。でも、たいしたことないよ」
と云われた。でも、そのときの痛みは、胃腸ではないと分っていた。胃腸は元々弱く、調子が悪い時の症状には慣れっこだった。しかし、入院中の痛みは違ったのだ。
「先生、でも、この痛みは胃腸とは違うと思うんですよね。なんだか、別の部分だと思うんです。」
勇気を出して答えた私に先生は
「いやあ、その辺は胃腸だよ、胃カメラも飲んだし大腸ファイバーもとって異常ないんだから異常なしだよ」
「はあ、そーですか」
専門家にそう云われれば黙るしかない・・しかし、ガールフレンド家に居た時血便出てたしなー。すげー横腹が痛くて引きつるような痛みで寝れなかったし・・・あれってなんだったんだろう。
こーゆー時系列が混乱した状態でいろんな状況の記憶がごっちゃになって浮かんできた。
やっぱり体調わるいな。骨折って体力落ちるんだなー?そう考えながらその日は眠りについた。
大学生のときにバイクで事故った14
チャンとした治療を受けてギブスも取れ、リハビリの毎日が始まった。そうこうしているうち。正月も明け、また学校に行かねばならなくなった。
それまでは、折れた足のまま、松葉杖を突いて学校に通っていた。
しかも卒業研究がレーザーホログラフィーっだたので(写真学科だったが、このお陰でほとんど4年の後半は工学部に入り浸り状態)実験は振動のない夜中しか出来ない。
このため、昼間授業を受けたまま、工学部に向かい、仮眠を取って深夜2時ころから実験を始め、そのままソファーで寝て、朝の授業を受けることも度々あった。一度は、授業の前に教室について、そのまま寝てしまい。教授に起こされることも。
そーゆー生活を4年になってから送っていたわけだが、さすがに疲れてきた。というか、「もういいだろう」という気持ちになってきた。実家が写真屋であることも影響していたが、そのころは
「大学卒業しなくても実家の写真屋があるので、就職には困らないし、これ以上大学行っても意味ねーなー。少ない単位とるのにもう一年大学いってもしょーがないじゃん。」
と、思い出したのだ。そこで、思い切って正月明けてからは大学には行かないことにした。
結局、最終的には、投げ出した卒研と、それ以外2単位が不足し、授業料も払わなかったので、「除籍」ということになった。
しかし、本当の問題はこの後に起こるのだ。
大学生のときにバイクで事故った15(最終話)
大学を辞めた後、実家の写真屋を手伝い始めた。
しかし体の調子が悪い。10時ころやっと起きて数時間すると起きていられなくなる。午後の2時には昼寝しないと体力が持たない。夜は10時には寝てしまう。
最初は事故のため体力が落ちているだけかと思ったがどうも様子が変だ。とにかく体がだるい。
そこで病院にも行ってみたが原因が良く分からない。
しかし、とにかく仕事にならないのだ。まともに動けない。酒とか飲むと2日酔いどころか3日くらい後を引く。どう考えても内臓系の疾患だ。しかしやはり病院では「ちょっと肝臓が疲れていますね」位の事しか言われない・・・仕方なく西洋医学での治療を諦めて、東洋医学の治療を受けることにした。
最初の受診日あっさり言われた。
「あ、すい臓と脾臓やられていますね。このままほっておくと重大なことになりますよ」
それで納得した。特に油物を食べた後、右のわき腹、アバラの一番下の奥に痛みが生じる。というより普段から鈍痛がある。きついときはその痛みで動けなくなる。排泄物が灰色になる。そんな症状の全てが説明できる。
この痛みは、先にも書いたように入院中から始まった。入院中はいつもベットに寝た状態から足を伸ばしたまま上半身だけ起き上がっていた。その為わき腹を圧迫した状況で長いこと座っていたわけだ。しかも遺伝的にもすい臓病の親戚が多い。
東洋治療では様々なものを体験した。
ヨガもやったし、食事制限も行った。特に結婚してかららは元妻の協力も得てマクロビオティック(玄米生食・・いわゆるベジタリアン)も2年くらい実行した。
とにかく、この間は、友人との旅行を計画しても当日の朝になって体調が悪くなり、体全体がしびれ始め、旅行を断念しなければいけなかったり、「自分がやりたいことが出来ない」というジレンマの中で暮らしていたのだ。
東洋治療で少しづつ体力が戻ってきていた事故から7年くらい経ったある日の朝、目を覚まして何気なく両手を伸ばし大あくびをした。その瞬間。
「バチッ!」
というような、何かが弾けた様な感覚を体の中に感じた。「なんだ?今の?」そのとき直感した。「あ、癒着していた何かが外れたんだ!」
それまで、いつも何かに引っ張られるような痛みを左わき腹に抱えていたわけだが、その痛みがその日から消えた。それから、本当の体力が戻ってきた。結局普通の人と同じような生活が出来るまで約10年近くかかった。
一度の事故とはいえ、このために引き受けた体の問題はあまりにも大きかった。
体力は復活したが、今でも酒はあまり飲めなくなった。また、無理をするとやはりすい臓が痛む。
ちょっと、シビアな話になってしまったが、要はこういうことだ。
「若いと無理をしても何とかなると思ってしまうが、一度壊した体が100パーセント元に戻ることはありえない!だから無理はしないように!!」
それでは、長々とこの話に付き合ってくれた人。有難う。これでこの話は終わります。
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大学生の時にバイクで事故った12
さて、バイク事故によって半年以上の入院を余儀なくされた私は、一時退院して、そのとき付き合っていた彼女の家に転がり込んでいた。
そんなある日、コタツの中で寝返りを打った際、右足に違和感を覚えた。
「あれ?なんかグキッって音がしたんだけど・・俺の脚」
それに骨折したところが痛い。しかし、先生はもう大丈夫だからリハビリしろって言ったよなぁ・・・気のせいか?
病院まで結構距離があって、なかなか行けなくなった私は、松葉杖をつきながら自分でリハビリを始めていた。例えば松葉杖を使わず近くのコンビにまで歩いていくのだが・・・骨折したところが痛い。どちらかというと激痛だ。
しかし、この痛みに耐えれば直るのだと思い、激痛の中リハビリを続けた。その期間約1ヶ月。それはもう、昔のど根性ドラマ並みである。
そうして、実家に戻って地元の病院に見せにいった。
”これで、相当回復しているはずだ。だって、あの激痛に耐えながらも自分でリハビリしたんだもの”
そんな気分で診察の結果を聞きに行ったら、レントゲンを見ながら先生がこういった。
「あーーーこれまだ折れてるね。ほら、スパッと折れてるでしょ?軟骨だけで繋がってるよ」
「ガーン!」
見事・・・そう、見せられたレントゲン写真は見事に斜めに亀裂の入った私の右足・・完璧に折れている。そのまま私は、またもや石膏で固められ、ギブスをはめられた・・・・・。
つづく
注:足のレントゲンは合成して作りました。当時の写真なんかもってないもんね
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大学生の時にバイクで事故った11
その日は新しい患者が入院してきた秋のある日だった。
彼とは、年齢が近い事もあり、すぐに打ち解けて院内の喫煙室でいっしょに世間話をする事になった。秋の日差しは思ったより強く、喫煙室の白いレースのカーテン越に、黒いソファーに縞模様を作っている。
そのソファーに腰掛けた彼は、ゆっくりとタバコをポケットから取り出し、ライターで火をつけた。逆光の中でタバコの煙が渦を巻いている。私のほうから尋ねた。
「あのう、見た所どこも悪くないようですが、内臓系の疾患ですか?」
「いや、偏頭痛がするんですよ」
「そうですか、頭痛ってきついですよね」
「もう2年近くに成るんで慣れたといえばなれたんですけど、やっぱり我慢できない時があって、今回も入院する事にしたんです。」
「えーでも、ここ救急病棟ですよね。でしたら脳神経外科とか行かれたほうがいいんじゃないんですか?」
「そうなんですが、昨日発作起こしてしまって、急だったので救急車呼んでもらったんですよ」
「あーそうなんですね」
そんな話をしながら2人してタバコをすっていたのだが、ふと見ると彼の肩がかすかに震えている。
「あれ?大丈夫ですか?なんか震えてませんか?」
「いや、大丈夫です。」
「顔色悪いですね。」
彼は「大丈夫、大丈夫。」と言いながら、だんだん、ソファーの上で肩を丸め膝を抱えだした。
その時、何か嫌な予感がしたのだ。
「あ、それじゃあ僕病室に帰ります。」
その頃私は、松葉杖だったが、その嫌な感覚から逃れたいという想いから、足早にその場から逃げ出した。
その直後だった。
「ヅアーーーーッ、アーーーーーーッ」
その彼が喫煙室で暴れだした。とにかく目に見えない何かと格闘しているような彼の動きは一種の非現実感を私に与えた。”ここは救急病院である。その、病棟の喫煙室で男が暴れている”一瞬、事の事態が良く理解できなかったが、慌てて看護婦を呼び行った。
看護婦が慌てて喫煙室に飛び込んだが、彼は止まらない。声にならない声で、叫び続けている。時折聞こえる単語は「頭が!」「痛い!」「割れる」・・・・。
やっとの事で3人がかりで押さえつけられた彼は、そのままズルズルと病室まで連れてこられた。病室で叫んでいる。
「助けてください。割れそうだ。頭が、割れそうだ。」
押さえつけていた一人の看護婦が「私先生呼んできます!」といって走り去った。彼は床の上で二人の看護婦から押さえつけられ、口の中にタオルをねじ込まれようとしてた。しかし、女性の2人の力では、押さえつけられない。
そこで、同室の患者さんたちも手伝って彼を押さえつける事にした。彼らも病人である。しかし、そんな事は言っていられない。そのうち一人の患者さんが彼の上着からあるものを見つけ出した。
「おい、これポン器だよ!、やっぱこいつシャブ中だぜ!!」
ポン器とはいわゆる覚せい剤の一種である塩酸メタンフェタミン(通称ヒロポン)を打つための注射道具の事である。
「やべえ!こりゃまずいぞ、先生まだかよ!!!」
彼は数人の患者と看護婦に押さえつけられながらも、時々すごい力で彼らを振り払おうとしている。そこへやっと先生が到着した。先生は彼に馬乗りになると肩口に鎮静剤を注射した。しかし、覚せい剤中毒患者の彼には効き目がない。やっと常人の3倍の鎮静剤を打って、彼の様子は落ち着いた。
この間、やはり私は何も出来ないでベットに座っていた。点滴打ちながら彼を押さえつけていた患者もいたのに、私は、何も出来なかったのである。しかも、彼の様子がおかしいのを察しながらも、喫煙室から逃げたのだ。このことは、足が動かない自分にとって、けして不合理な事ではないと、納得も出来るのだが、ある種の後悔にも繋がった。
後日聞いた話だが、そのポン器を見つけた患者は、僕より前にその彼と話をしていたらしく、彼について次のようなことを言っていた。
「この前暴れて連れて行かれたアンちゃんいただろ、あいつは2年前に車で大事故にあって、脳に障害を負ったらしんだよ。んでまあ、ヒドイ頭痛に悩まされて、それからヒロポンに手を出したらしいんだぜ。あんたも薬だけには手を出すなよ」
何だか、今考えてもちょっとやるせない事件だった。
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大学生の時にバイクで事故った10
今回はちょっと視点を変えて入院中に僕が収得した技を書いてみよう。
入院後、とにかく暇をもてあます時期がやってきた。何もやることがないのである。これには参った。そこで、何気なく見ていたテレビのCMにインスパイアされた。そのテレビは次のような事を云っていた。
「我が家にコンピューターがやってきた。ジャンケンポン。カセットポン。」
まあ、本当にそんな事言っていたかはよく覚えていないのだが、そのフレーズで購入を決めた。見舞金をかき集め、友人に頼んで電気屋から買ってきてもらった。確か\79,800だったような気がする。それがNECのPC-6001というコンピューターであり、自分で買ったはじめてのパーソナル・コンピューターだ。
当時としては珍しいグラフィックとPSG3和音が扱え、なおかつ9万円を切る低価格だった。
また、カートリッジROMを採用し、ホビーパソコンとして一気に普及することに。
これにははまった。とにかく時間はある、ひたすら内蔵されたBASICと格闘して、3日後には「じゃんけんゲーム」というのを作った。要は単純、ランダムにパソコンが出すじゃんけんと勝負して、10回のうち何回勝つかというだけ・・・・・しょぼい。
しかし、これが元で私のパソコン暦が始まるのだ。それ以後、PC-9801、MSXなどたくさんのPCを使いMACにはまり、とうとう学校でパソコンを教えるまでになってしまった。
ほんと、あの事故がなかったら、パソコンを買う事も遅れていただろうし、その後音楽をパソコンで作るなんて事もなかったかもしれない。いやあ、転んでもただでは起きないってのを地でいったなと、我ながら思うのであった。
しばらくして野球ゲームを作った(初めてグラフィック機能を駆使して自分では頑張ったつもり)んだが、自分自身が野球を知らないので、「二塁ゴロなのに三塁打」とか出ちゃって野球好きの友人から散々馬鹿にされた。やはり、知らないものは作らないほうがいいな。わははははは。
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大学生の時にバイクで事故った09
足の骨折って移動が出来ないのが辛い。入院中も後半は松葉杖で移動できるようになったがしばらくは、全く動けなかったわけだ。先に浣腸されちゃった患者さんのことを書いたが、私自身も、手術が終わるまでは、動けないでベットで用を足していたいたわけで、用が済んで看護婦さんを呼ぶのが辛かった。
ある日の夜、すでに消灯時間を過ぎ、うつらうつらしていた時、それは起こった。
”ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン”
何事かと飛び起きて周りを見回す。しかし、聞こえるのはけたたましい警報の音だけ、周りの患者さんも起きて騒ぎはじめた。
「なんだ?何が起こった?」
「火災警報だ!」
「家事か!」
「家事だぞ!」
いわゆるパニックである。動き回れる患者さんが病室から飛び出していく!そのときの自分は・・・・動けないのである。
「え、何?何?なにぃーーーー?」
パニックである。これは怖い。何しろ、けたたましいサイレンがなる中、半身しか起き上がれないのだ。
”ヤバイ、どうする?手だけで移動できるのか?どうやって階段を下る?エレベーターは無理だろうな、病院で焼死は嫌だな、ああ、まだお見舞いでもらった馬刺し食ってないぞ!”
色んな想いが駆け巡る。
結局、火災報知器は誤報だという事が、飛び出していった患者さんの話で分る。しかし警報は鳴り止まない。鳴り始めて20分位して、やっと鳴り止んだのだが、その間一度も院内放送もなかった。
おかしいだろー?ちゃんと放送で「今のは誤報です」ってアナウンスするのが普通だろ!!頼むよ本当!
その間、見かけた唯一の病院関係者は、なぜかハンマーを片手に走り去っていく院長の姿・・・・。
やっぱ、おかしいよーーーー。
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大学生の時にバイクで事故った08
とび職の人って、やはり落下事故など危険と隣り合わせの仕事で、大変だなーと思うのですが、ある日両腕骨折で入院してきた人が居た。
まだ20代だと思うんですが、なれない入院生活で不自由そう。 何が不自由って、両手ともギブスさせられてつられた状態で日常を送るわけだから、一人じゃなにもできない。マイケルジャクソンの一人スリラー状態ですな。
そんなある日のことだった。 看護婦さんと本人との会話
「あなたお通じはあるの?」
「いや、実はないです」
「ないですって?いつから?」
「ええと、入院してからですね」
「ええっつ、全然ないの?」
「はい、まずいですかね?」
「だめじゃないの。そーゆーことはちゃんと言ってもらわないと」
「はあ」
「仕方ないわね。いまから、浣腸しましょう」
「えっ今からですか?い、嫌ですよ」
「だめよ、今からよ」
そういうと看護婦さん・・・この看護婦さんいわゆるこの病棟のドンみたいな人・・・・ナースステーションにとってかえして、浣腸器を持ってきた。
「えええ、いいですよ。自分で踏ん張りますから」
「でも1週間出てないんでしょう」
「いやだから、出します、出します。せめて自分でやらせてください」
”自分でやる”とは自分で浣腸するという意味なのだが、良く考えれば両手が動かないのに出来るはずがない。どうやら本人も相当動揺しているようだ。勿論ここは10人の大部屋である。動揺しないほうがおかしい。その様な本人の申し出は、ドンである看護婦の耳に届くはずもない。
「はーい。つべこべ言ってないでおとなしくしなさい」
「いや、今は勘弁してください」
「だめだめ。私は午後から休みなの」
そう言いながら、看護婦はパジャマを脱がし、さっさと準備して浣腸が始まった。
「あ、ああ、あああああああああ」
「何うめいてるのよ」
「いや、あ、うううっあ、ああああああああああ!」
「さっさと出しなさい」
「ええ、で、出ません、あ、ででで出ます。あ、ああ、出ます出ますで増すddさ;だいh:@fjej:じ9」
(後半は言葉にならなかったようだ) 看護婦はさっさと仕事を済ませ、去っていった。残された彼はすでに放心状態・・・・可愛そうだ。 勿論、看護婦さんもお仕事、本人の為にも糞詰まりはよくない。ただ、一言言わせていただきたいことがある。
昼飯の直前に大部屋で浣腸するのはやめてくれぇー
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大学生の時にバイクで事故った07
先日、右の脳に障害を負ってしまった患者さんの話をしたが、或る日、左脳に障害を負った吉本さん(仮名)が入院してきた。左脳には、言語野があるので、右脳の障害とは違った症状が現れる。
実際には、この両方の患者さんが同じ時期に入院していた。私のベットの左側には右脳、正面には左脳という配置だ・・・。
吉本さんは当然言語つまり言葉が不自由。毎日、院長先生が回診の際に、質問をする。
「吉本さん。これ、なんですか?」
院長は左手にりんごを持っている。しばらく吉本さんは考えて、こう、答えた。
「ラジオ・・・」
「あー、これラジオですか?・・・ラジオじゃないですよ。もう一度聞きます。これなんですか?」
「えー・・・なずび・・・・」
「おしい!なすびじゃないですよ。食べるものですね。」
「あ・・・・・・・っわかりません。」
このような会話が、退院するまで、毎朝続いた。その横で左の患者さんからは
「隆弘、お前いつ来たんだ?」
「えっ?いや、僕は”隆弘”じゃありませんよ。隣のベットにいる浅川です」
「お前、隆弘じゃないのか?」
「はい、違います」
「じゃあ、何でここに居るんだ?」
という、攻撃が続くのだ。ちょっとこちらのほうが混乱してくる日常であった。
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大学生の時にバイクで事故った06
さて、この入院生活はほぼ4ヶ月に渡るのだが、それだけ長くなると色んなことに遭遇する。というか、勉強になる色んな事が起きる。
例えば、人間の脳は右と左で、その処理機能が違うという事を体験できたりする。
或る日60歳代のオジサンが運び込まれてきた。その人は脳溢血で倒れたらしい。看護婦に聞いてみると、右脳に障害が起きていて、体も思うように動かない。入院直後は眠り続けていたが、徐々に元気を取り戻し、私にも話しかけてくるようになった。ただ、少し問題があった。おじさんは私に向かって
「隆弘、お前いつ来たんだ?」
「えっ?いや、僕は”隆弘”じゃありませんよ。隣のベットにいる浅川です」
「お前、隆弘じゃないのか?」
「はい、違います」
「じゃあ、何でここに居るんだ?」
混乱している。そーなのだ。右脳というのは、直観力とか、総合的な判断力などを司っているので、状況は認識できるが、正常な判断が出来ない。この、オジサンの混乱は、転院するまで続いた。
「隆弘、お茶飲ませてくれ」
「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、お茶ですね。注いであげますね。」
「お前、隆弘じゃないのか?」
「はい、違います」
「じゃあ、何でここに居るんだ?」
このような会話が延々と続いたりする。或る日、またオジサンに話しかけられた
「隆弘、小便がしたい」
「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、小便ですね。今看護婦呼びますね。」
「お前、隆弘じゃないのか?」
「はい、違います」
「じゃあ、何でここに居るんだ?」
まあ、これで、通常は看護婦が来て処置してくれるわけなのだが、その時は違った。いつまで経っても看護婦が来ない。どうやらちょうど交代時間でたまたまナースステーションが空だったようだ・・・・・・・・・・って、許されることではないな。
「隆弘、小便がしたい」
「あ、あの僕は”隆弘”じゃないですけど、小便ですね。看護婦読んだのですが来ないですね。」
「お前、隆弘じゃないのか?」
「はい、違います・・・いや、僕隆弘です。」
なぜ?僕が「自分は隆弘だ」と答えたかって?それは、このまま隣のベットでお漏らしをされても困るなと思ったからだ。そこで私は、不自由な足をベットから下ろして、オジサンの尿瓶を手に持ち、オジサンのパンツを下ろした。
その時、触れたオジサンのフニャチンの感触を今でも鮮明に思い出すことが出来る。後にも先にも他人のチンチンを握って尿瓶におしっこさせたのは、このときだけである。いやあ、介護とかやってる方々は尊敬に値しますよ。
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大学生の時にバイクで事故った05
手術を受けてからの数日は痛みのため、迷わず痛み止めを飲んだ私だったが、救急病院であるその病院の大部屋では様々ことが起きた。
或る日の朝、メガネの禿げおじさんが運び込まれてきた。どうやら酒飲み過ぎてぶっ倒れたらしい。夕方には普通に戻ってなにやら話をしていたが、どうも話の要領を得ない。何を言っているのか良く分らないという状態だ。
「こいつはヤバイ」
とまあ、その時は感じたが、感じただけでは何もいえないので、消灯時間になりベットに入った。うつらうつらしていたその時だ。そのおじさんのベットのほうから声が聞こえた。
「後ろにぃ!そこか?!そこだな!」
びっくりして、おじさんのほうを向くと、おじさんがベットの上に立ち上がり何かを掴んだのが見えた。「え?、なんじゃ?」と思った瞬間。手に持った何か(湯のみだと後で分った)を突然投げつけてきた!おじさんは続けて、
「そこだな。ほらそこだ。その陰に!そこに居るんですよ!!」
あ、幻覚だ・・・・おじさんは幻覚を見ている。そーなのだ。おじさんは所謂、アルコール依存症。平たく言えばアル中・・・あわててナースコールをした。やってきた看護婦に対して、
「すみません。女優さん。女優さんが居るとも知らず、いや、あそこの陰に居たんですよ。黒い影が・・・・」
「何も居ませんよ。何言ってるの?静かにしなさい!」
その場を収めようとする看護婦の言うことをおじさんは全く聞こうともしない。
「だから、危ないんですよ。このままじゃ皆喰われますよ!」
私は、「な、何に食われるんだぁああああ!」と思ったが、看護婦さんはその事を聞いてはくれなかったし、やがて、しゃべり続けるおじさんの家族という人たちが駆けつけ、おじさんを引き取っていった。アル中にはなりたくねーなーと、思いながら私は寝る事にした。
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大学生の時にバイクで事故った04
さて、骨折したのは右足のスネの部分だったが、所謂複雑骨折。手術を受ける事になった。
この手術というのがしゃれてる。
通常はボルトやプレートを入れて固定するわけだが、そこでは最新の手術を行うという話になった。 そのやり方であるが、プレートやボルトは使用しない。使用せずどうやって固定するかだ。 それは、足の3箇所、つまりひざの下と、足首の上、骨折したちょっと上、この三箇所に鋼線を通す。その鋼線をギブスと共に固定して骨が繋がるのを待つというやり方だ。
この治療方法を説明してくれたのは若い外科医。「最新の治療法」という台詞にはなんとなく惹かれる響きもあり、面白そうなので快く了承した。
しかし、その外科医、何だかとても若い。若さというものにはハツラツとした良さもあるが、治療という基本スタンスに立ち返ってみると一抹の不安もある。しかしながら「まあ、大丈夫だろう」と、たかをくくっていたのが、後半の悲劇というか、これ以降私を10年近く苦しめる、ある結果へと導く事になるのだ。
手術を受けたあとで聞いた話であるが、この病院は救急病院であるにも関わらず、専門の外科医というのがいない。で、私を担当したのは九州大学の医学部のインターンであった。
手術の日、両親に見送られながら、手術室に運び込まれた私は、どんな、手術なのか不安を抱きつつも、割と悠然と構えていた。 「なああに、骨折の手術くらいなんて事ないだろう。内臓と違って、腹割られるわけじゃないしな」 それがその時の想いだった。
軽い全身麻酔のあと局部麻酔がかけられ手術が始まった。勿論、手術中は意識もはっきりしている。さて、骨の3箇所に穴を開けるだけ。電動ドリルで開けるんだったら一瞬だな。
その時、激痛が走った。
「どがーーーーー。痛いです。」
「あ、ごめんごめん。局部麻酔の利きが悪かった悪かったみたいね。看護婦、もう少し麻酔打って」
さらに局部に麻酔が打たれた。先生が
「じゃあ、行くよ」
「はい、おりゃー、まだ痛いです」
「だいじょぶだいじょぶ。すぐ終わるから」
激痛はまったく収まらない。それなのに、骨を削る感じがどんどん続く。ゴリゴリゴリゴリ・・ゴリゴリゴリ。
「おぎゃあ、どりゃー、おぎいいいいいいいいいぃ」
痛い。痛いし、なんか変だ。電動ドリルの音がしない・・・・・静か過ぎる。「ゴリゴリ」しか感じられない。そこで足元を見て状況が理解できた。
手回しドリルだ! 手回しドリルを持った医者が私の足を看護婦に押さえつけさせて、馬乗りになっている。そーして彼は言った。
「君は若いから骨が、か、硬いねーぇ!!」
「どひゃあーーーーー。うりゃああああああああ。」
何だか急に恐ろしくなってきた。恐ろしいのはいいとして、とにかく痛い。でも、痛いとはいわなかかった。やはり痛みを忘れるには叫ぶしかない!そう思った私は叫び続けた。
「あぎゃーーーー、ぐううううううううっく。いだだだだだだだだ。」
そのうち普通に叫ぶのに飽きてきた。
「どりゃーーーー、ど、どどどど、れみふぁそらしどー!いでででででで、電気あんまー!!」
笑っている。看護婦と医者が笑っている。私は心の中でこう思った。 「うけた。ラッキー!」 こうして、数時間をかけて3つの穴が開き、それぞれに鋼線が差し込まれ手術は完了したのであった。とにかく、疲れた。なぜ疲れたか?って。勿論叫びつかれた手術であった。
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