熊本市 DELTA WORKS のメンバーがお届けするCMS制作日記と日常の変なこと
14 11月
元々、インターネットは中央集権的な情報管理システムが存在して
これは、実は有機的な情報管理システムに酷似している。全体とし
部分的に発達した、システムは全体に影響を及ぼし、全体的な方向
この変化が有機的なのだ。
どのような変化があったとしても、それらに柔軟に対応しつつ、オ
人間にしても、種の保存を第一命題にしているとはいっても、自殺
つまりは、システムによる結果自体の評価は相対的でしかなく、絶
10 9月
現代の寓話としての物語公開中。これはおもしろいと思います。 http://www.kizuku.info/guuwagendai.html
25 4月
久しぶりにGoogle Earth を試してみた。
建物の3D表示が出来るなど色々機能が増えていることは知っていたが、試す機会がなかったので、やってみたわけだが・・・・いやあ感動するな。
各拠点でYoutubeの動画が見れたり、写真が見れたり、さらにはストリートビューで、通りを移動したり・・・しかし、一番感動するのはやはりその移動中の浮遊感だ。
で、なんで感動するのか考えてみた。
それは自由に場所場所を移動できる時のViewつまり視点の移動が、人間の限界を超えた「神の視界」に通じるからだと思う。
普段私達が使っている言葉に「スゴイ」というのがあるが、「凄い」は「凄む」に通じるわけで、「何ものかが棲んでいる」というような意味とリンクしているはずだ。「その何者か」は人知を超えた存在であって、良き物でも悪しき物両方で使われる。
例えば映画「マトリックス」の中でのバーチャル・リアリティーで、肉体の限界を越えた主人公が活躍するわけだが、それも結局は神に選ばれた救世主という事になっている。従って主人公は凄いわけだ。
従ってGoogle Earth も凄いのである。
12 11月
誰かの為に何かをすることでその人を変えようと思ってもそれは無駄な努力に終わる場合が多い。とはいえ、我々は人との関わりを拒否したところで成長するというのは難しい生き物だ。
それすなわち、我々は相対的にしか存在し得ないからだろう。
誰かと誰かが関わることで、それぞれがそれぞれの立脚点を確認でき、折り重なった繊維のごとく我々は存在している。
そのことに気がついた人は幸福なのだ。
27 7月
人との関係とは一朝一夕に出来上がっていくものではない。そこには時間が必要だ。
私たちは、それぞれが独立した人格を持ち、それぞれは、自分自身の存在を容認することに躍起になっている。しかしながら、それぞれが、それぞれで本当に分離して存在が許されているわけではない。つまり、相対的な関連の中で、存在していて、それぞれの存在は相対する対象と繋がっている。
「私」という自意識が生まれ、自己と他者という二元論で物事を考えはじめると、必ず思考の袋小路に入る。
二元化すれば問題の原因を他者に求めた方が楽に決まっている。この方向性は人との関係において、本人の自覚が無い部分で自己否定へと繋がっていく。いや、自己否定が二元論的方向性へと向かわせるのかもしれない。こうなると論理は閉じてしまう。自己否定と他者への攻撃、これはある意味同じ行為なのだ。
他者との関係とは、連綿と続く、受容と拒否の連なりである。そこで、くじけてはいけない。
良く考えれば、自己であっても、受容と拒否の塊だ。自分自身をコントロールするということは、それらのせめぎ合いにおいて、それらを統合する働きと言える。他者との関係性も同じなのだ。
これらの関係性を構築するためには、それ相応の時間も必要だ。近づきつつ離れつつ、ダイナミックに関係性は変化する。その自覚の元に、人との関係を続ける事が重要なのである。一度構築した関係性は、時間や空間の壁を越える。それらは・・そうだな・・キャンプ場でテントを張るときステーを張るように、自己を補強してくれるのだ。
なんか、眠いので、言葉が分かりにくいが簡単に言うと
「だからさああ、一度相手に拒否されたからって、そんなの一々気にするなよ。んなもん。当たり前の出来事じゃん。調子わるかったら、時間を置いてまたトライすればいいだろ。しかもだ。トライはいつでもいいのよ。1年後でも5年後でも10年後でも!!重要なのは諦めないってことじゃねーか!」って事ね。
7 3月
以前からデータリカバリーの仕事もしているのだが、消えてしまったデジタルデータをハードディスク(HD)から復旧していて思うことがよくある。それは「デジタル化された情報は脆い」ということだ。
例えば、何年もかけて書いた論文であれ、ボタン一発で全て消えてしまう。それがデジタルデータというものだ。
今回、友人から頼まれ、通常のフォーマットのHDをRAIDシステムのデバイスに繋いでしまい、吹っ飛んだデーターをサルベージしている。ちょっと厳しい。半分くらいはディレクトリー情報が解析できたので、復旧可能だが、後の半分はインデックス情報がダメージを受けていて、正常な状態での復旧は難しい。復活させても中身が壊れている。その壊れているディレクトリーにこれまで撮り貯めた家族写真が入っているのだ。
現状では、これら写真を元に戻すのは理論的にも難しい。
HDの中にはデーターがランダムに存在しており、その所在は目次の様な情報で管理されている、その情報(ディレクトリー情報)が壊れてしまうとどこに何のデーターがあるのか分からなくなり、HDの中の磁気情報は、単なるゴミとなってしまうのだ。
これまでの写真の場合、沢山の写真を一度に燃やすという事は難しいが、デジタルデータなら一瞬で全てを灰に出来る。しかも、復旧には時間と手間が掛かるし、全く不可能である場合も存在する。
もちろん、写真のデータだけではない。それこそ長年苦労して作成した情報を一瞬にして無くすことがあるのだ。私は「情報=お金」だとも思っているが、それを一瞬にして無くすことの重要性をまだまだわかっていない人も多い。それが起こってしまってから頭を抱えるのだ。
特に今回の場合、極端な言い方をすれば、仕事上の情報を無くすよりもさらに始末が悪いと言えるだろう。仕事でヘマをしてそのクライアントに損害を与えたとしても、それは自己責任において、自分で責任をとる方法がいくつかある。しかし、家族写真だとそうはいかない。クライアントから信用を無くすのは自己責任だが、家族から信用を無くすのは取り返しがつかない。(もちろん、だからといって仕事のデータが重要ではないと言っているのではない)
修復しているこちらも本人より、その家族のために頑張らなければと思ってしまう。
さて、もう少し分析を続けてみるか・・・正しい情報が見つかってくれよーー!
14 2月
ちょっと乱暴な言い方かもしれないが、私は「存在=振動」と捕らえている。つまり、振動していないものは存在していないのと同義語であると考える。
例えば、有機体であれば分子はブラウン運動を 繰り返しているし、無機物でも電子は活発に動いているらしい。見たことねーけど・・・。それらがお互いに共振して作用反作用が生成されるところに「存在」が生まれる。
全ての振動が停止した絶対零度状態では、物は存在していない・・・というのはちょっと極論だが、生命としての存在はそこには無いだろう。んでもって、例えば私の妻は占い師でもあるが、彼女が占う時に、対象者との間にシンクロ現象が生じていると考えている。占いって、何で占うかが重要なのではなく誰が占うかの方が重要だもんねぇ。
でだ、還元論的な考え方するとすると、物自体が相対的にしか存在しないとして、精神も同じように相対的な存在であると考えられるから、それらが共振したところで、相手の気持ちや無意識下におけるコンプレックスなんかが見えちゃうのかなーと思うのね。
しかしまあ、それって、占い師である彼女だけの特権ではなく、私でもある程度分かる事がある。初めて会った人でも数分話しただけで、その人の抱える問題なんかが分かるのね・・・いや、単なる感ですよ。でも、それって結構的中率が高くて、確率論的な説明では説明のつかない事も多い。
そーゆーことが日常にあったりすると結構楽しいよねー。
13 2月
昨日は親のカルマについて考えてみたが、今日は子供としてのカルマを考えてみよう。
子であるカルマとは、自分を庇護してくれる存在への依存だ。それこそ、「親だからこうしてくれるだろう」みたいな考え方による依存心と思い込みにある。
また、不幸なことに、「親が言うんだから間違いない」とか「親の言う通りにすれば間違いない」等といった自己放棄した感覚による判断基準での行動は自分自身の成長を止めていることになる。
これはいうなれば、優等生タイプに多いパターンだ。
先の親のカルマによって子供を自己の分身としてしか捉えていない親と優等生タイプの子供との間には様々な問題が発生する。
親は子供のことを思って言葉を発しているつもりだが、それはすなわち自己愛の裏返しでしかなく、それを鵜呑みにした子供は翻弄されていく。元来、子供は親と離別していく事で、自立の道を歩むわけだが、 その時期が遅れれば遅れるほど子供の精神は退廃する。
そこから離脱するのは並大抵の事ではないのだ。
11 2月
親子という関係を続けていると、たまに思うことがある。
自分は子供を自分の分身としてみているのではないのか?
これは、どーゆーことかというと、元来子供は自分の子供であっても一人の独立した存在であり、幼い時に庇護は受けるが、やがて親元から巣立ち自立した存在にならなくてはいけない。しかし、一度「親」というスタンスで我が子を見てしまうと、そのスタンスから抜け出すのが結構難しい。
どこまで、庇護するべきか?どこから自己責任は問うのか?
この境目を間違えると親にとっても子供にとっても不幸が訪れる結果となる。 往々にして「親」は子供に「こうあって欲しい」とか「こうあるべきだ」と教える訳だがその判断基準を自分の中にきっちり持っておかないと子供は混乱する。しかも、その判断基準が、世間体とか常識なんて言葉で表現できるものであれば、子供はすぐにその嘘を見抜くだろう。
従って、自分の中における価値観、または物事へのスタンスを認識しておかないといけない。
そうすると、逆に極端なことを子供に言ったとしても子供は不安がらない。もちろん、それを押し付けては駄目だ。「私の立場としてはこう思う」とか「私ならこうする」てな具合ならいいのだ。
道は示すが、決断は本人にさせる。これが基本だ。
たまには間違った判断を下すだろう。しかし、それでいいのだ。大人になって間違うよりましだ。
例えば女の子がフリフリのワンピースを買いたいと言うだろう。そのとき、「あなたには似合わないから別のを買います」といってはいけない。似合わないとわかっていても買うという事が決まっているのなら似合わないワンピースを買うべきだ。実際着てみて子供はその「似合わなさ」に気づくかもしれない。そーすればしめたものだ。気づかないなら気づかないでそれもまたよし。
そーこーしているうちに、自分の事は自分で決めるという、当たり前のことができるようになるのだ。
この「あなたには似合わないから別のを買います」というのが実は親のカルマ(業)なのだ。
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