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‘フリーランスの作り方’ カテゴリーのアーカイブ

フリーランスの作り方013

なぜ、これほどまでに仕事の幅が広がったのか自分でも考えてみた。

元々、手先は器用ではないし、頭もそれほど良くない。客観的に判断してみると中の上ってところだ。従って、何かの道で一流になれる訳でもない。

それでも、普通には出来ないことが出来るようになってしまった。その理由は簡単だ。

『スイッチオン』のお陰である。中学時代に自分で自分のスイッチを押したのだ。しかも、未だにオンのままだ。

結局、写真屋という用意された仕事から、自分のやりたい仕事にスイッチするのに10年以上かかっている。自分の好きなことで食えるようになるまでは、もっとかかっていると言える。

最近、よく相談を受ける。

「カメラマンになりたいんです」とか「ウェブデザイナーになりたいんです」とかね。

そのときは、こう答える。

「やり続けろよ。好きだったら続けろよ!生きるために他の仕事しながらでも辞めるなよ!それが唯一の方法だ!」と、ね。

フリーランスの作り方012

そういえば、書き忘れていたが、先の日記に書いた以外に当時の妻の実家も、偶然ホテルの写真館だった為に、土日はニュースカイホテルで結婚写真の撮影などもやっていたし、趣味で集めた音響機材を使って頼まれてイベントのPAもやっていた。

そこにウェブ系の製作業務が仕事に加わり、とても忙しいことになってしまった。しかし、本業の写真業は斜陽産業。年々売り上げが厳しくなってくる。

そうなると、やはり副業を正業にするべき条件がそろいはじめた。先のコンビニのHPを作ってから一年後、誘われ続けていたその時の友人が興した会社に入ることを決意した。

家業からの撤退である。(ちなみに実家はまだ父が写真屋を続けています)そうして菊池にあったその会社は、私が入ったときには4人だったが、今では十数人の製作会社に成長している。(私は2年で辞めたけどね)

会社での事は実はあまりにも沢山の事が起きたため、逆に良く覚えていない。とにかく、何でもやった。HP製作、プロモーションビデオ製作、デー ターベース開発(これも実は趣味で実家の写真屋の為にファイルメーカーを使った請求納品関連のシステムを組んでいたため、ファイルメーカーなら結構作れま す)、システム開発、メンテナンス、タッチパネルシステム構築、ネットワーク構築、音楽製作、声優等々・・・。

辞める最後のほうでは、仕事があまりに増えたために家に帰る事が出来ず、事務所の風呂場で寝ていた。

タイル張りの風呂場に、キャンプ用の薄いマットを敷いて寝るのだが、冬場は厳しい。薄いタイルというのは木に比べても熱伝導率が結構高い。熱伝導率が高いということは、逆に体温も奪う。

うつ伏せや仰向きで寝てはいけない。接地面積が広いから体温を奪われ凍死してしまう。横向きで寝るのが正しい寝方だ。

そうして、この会社を卒業し、現在のフリーで仕事を始めた。それがDELTA WORKSというシェアリング集団だ。

つづく

フリーランスの作り方011

自宅の写真屋をやりながら空いた時間で、音楽製作、メンテナンス、専門学校の非常勤講師をしているうちに、またもや次の展開がやってきた。

この時期は、インターネットに興味を持ち熱中していた時期だ。その中で、ホームページの製作を趣味で始めていた。 そんなある日、メンテナンスしている病院関連のエンジニアから、熊本でウェブ製作の営業をやっている人が居るので紹介したいとの話があり、会うことになった。

学校近くのジョイフルで始めて会ったその人は、体育会系で、イケイケタイプ。

 「いやあ、今まで頼んでいた人が熊本に居なくなっちゃって、ウェブ作れる人が居なくて困ってるんですよ。」
「あ、まあ簡単なものなら作れますよ。」
「そうですか?そりゃ良かった。実はすでに受注してまして、すぐにでも製作に入りたいんですよ。」
「そりゃまた、急な話ですね。でも、どの程度のボリュームなんですか?」
「あ、ボリュームはたいしたこと無いんですけど、15~16ページかな・・。でも納期が無くて2週間で仕上げないといけないんですよ。」
「2週間・・構成資料はあるんですか?」 「ええ、一応そろっています。」
「じゃあ、何とかなるかな・・昼間は写真屋と学校があるんで動けませんので、夜しか仕事できませんけどいいですか?」
「あ、も、全然問題ないです。」

その日は、その程度で話は終わった。翌日資料を持って来るとの事。その資料を見て大変だということが分かった。 相手は九州でも大手のコンビニエンス・ストアーの本部のウェブ。ボリューム的にも最低でも50ページ以上ある。それだけではない。オープニングにFlashが必要となる。 その時期はFlshのバージョンも2か3で、私自身まず、作ったことが無かった。

その日から地獄が始った。 ウェブ全体の構成を確認して、再構築しながらFlashを買いに行き、ソフトを覚えつつ製作に入る。昼間は仕事なので、製作は出来ない。一人だと完全にアウトだということが予測できたので、もう一人、素人の友人にヘルプを頼み、HTMLコーデックを無理やりやらせる。 それと同時に、デザイナーを用意し、ウェブのデザインをやってもらうが、元々印刷関係のデザインしか経験無いため、ウェブに使うのには不可能なレイアウトが上がってくる。

しかし、訂正させる暇は無い。出来る限り忠実に再現しつつ不可能な部分は改造する。それと同時にオープニング、ナビゲーションFlashを合計4本仕上げる。ほとんど眠れない。

当時はマックだったので、一番早いパソコンは店に置いてある。食事と仮眠以外は仕事に充てる。倒れるようにパソコンの前で力尽き座ったまま寝て、起きたらまた仕事に戻るという繰り返し、もう、昼なのか夜なのか食事したのかしていないのか全く分からない。 頼んだ人もクライアントとの中継で、ヘロヘロ。

南下して宇城市に来るのに間違って、高速を北上してしまうという有様。 怒涛のような2週間が過ぎ、何とか完成した。

後日、その仕事を持ってきた人が言った。

 「いやあ、あの時はすみませんでした。だって本当のこと言ったら受けてくれないと思ったもので・・。」
「そうね。その判断は正しかったよ。本当のこと知ってたら受けてないよ。しかし、2度目は無いからね!」

とまあ、そのときはそう云ったのだが、それから一年後、その人が起業した製作会社に入社することになるとは、その時まったく持って予想できなかった。 つづく

フリーランスの作り方010

番組企画、音楽製作、メンテナンス、ディスクリカバリーとまあ、随分副業の種類が増えた時点で次の転機が訪れた。

この時期、私はマックによるパソコン通信にはまっていた。Niftyから始って熊本ローカルであるアリエスそしてJNETと楽しんでおり、その際 にロケットベルケというバーチャルテクノバンドのプロデュースなどもやっていたが、その時の通信仲間の一人からある頼まれごとがあった。

「今、うちの専門学校で講師の空きが出来て、代わりの先生を探しているんですが、浅川さん誰か良い人居ませんかね?」
「そうですね。ジャンルは何ですか?」
「マルチメディアなんですよね。」
「分かりました。探してみましょう。」

しかし、マルチメディアというジャンルに精通する人材はなかなか見つからない。そのうち頼んだ人がこう言った。

「そうだ、浅川さんやりませんか?浅川さんなら映像系は専門だし音も作れるからぴったりですよ」

この提案には正直悩んだ。それまでの仕事とはちょっと性格が違う。何しろ、大学も芸術学部に進んでいたので、コンピューターの専門教育は受けたことが無い。コンピューターの学校でコンピューターの事を教えるなんて、ちょっと敷居が高すぎると思ったのだ。

「どうしても見つからない場合は、何とかしますね。」

と、答えた。そうこうしているうち人材が見つからず、やる羽目になった。そこで、初年度は私一人ではなく、友人のクリエータ達と交代でやることにした。それぞれ現場の第一線で活躍している人たちだ。

彼らとやることで、なんとか状況が分かった。これなら出来るかもしれない。それ以降、現在も大学と専門学校で非常勤講師を続けている。

正直この展開は読めなかった。まさか趣味から始ったコンピューターなのにそれを教える立場になろうとは・・・しかも、学校ではどちらかというと、アウトサイダーで集団行動が大嫌い。もっと言えば学校自体が嫌いだった。

娘が小学2年で不登校を決断したときの言葉がよく分かる。

「おとうさん。学校というところは40人の人が居て、同じ時間に同じ場所で同じことしなきゃいけないでしょう。自分がやりたいことがあってもそれが出来ない。それが私には我慢できないのよね。」

それなのに教える立場になったのだ。

しかし、教える事自体は楽しい。

正直言うと、私の今の仕事は多くの場合、自分が苦手としてきたことの方が仕事になっている。子供のとき苦手だったが、音楽であり、美術であり、学校だったのだ。不思議なものである。

フリーランスの作り方009

そのアイディアとはデーターリカバリーだ。

印刷会社のメンテナンスでよく頼まれることがある。

「このMO読めなくなったんだけど何とかならないかな?」

何とかしてみましょう。てな具合で色々試していたら、通常のソフトでは不可能だった消えたデーターの復旧が出来るようになった。

そこで、ためしにウェブ上にホームページを作ってみた。

「あなたのパソコンの消失したデータを復旧します」

たった、数ページのウェブに過ぎなかったが徐々に全国からデータ修復の仕事が来るようになった。正直これは儲かった。基本的にサービスだから元手が殆ど不要。例えば1台のHDを修復すると数十万の料金なった。

実は当時のデータ修復というのは数百万というのが相場でありそれを論理障害に限定することで10分の1位の値段にしたのだ。

これを本格的に事業化すれば大儲けできることは目に見えていた。しかし、今は頼まれない限りやる事は無い。ある時期から辞めたのだ。

それはなぜかというと、こんなことがあった。

東京のある会社から、壊れたHDが届いた。クライアントはとにかくいくら掛かってもいいから修復してくれとのこと。ま、料金表以上の金額は取るつもりが無い。

結構重度の障害だったために1週間掛かったが何とか成功した。成功の電話をかけると、電話口の奥から歓声が上がった!

「やったああああああ」

喜び方が尋常ではない。修復後データーの状況を確認するためにランダムにデーターを確認していて驚いた。あるメーカーの非常に有名な商品の発売前のキャドデーターが含まれていたのだ。

もし、このデーターが社外に流失すれば大変なことになる。そんな重要なデータだったのだ。怖くなった。ヤバイ。この仕事、私のように遊びの延長でやるべき仕事ではない。そう感じたのだ。

そこで、その仕事からは手を引き、その当時仕事を探していた友人にその仕事を振った。その友人の会社は今や年商数億円を稼ぎ出す優良企業だ。

いやあ、いくら技術があってもレスキュー業務はストレスがでかくて厳しい仕事だ。他の仕事が出来なくなる。それって向いてないのよね。

フリーランスの作り方008

それまでNECのPC98を仕事では使っていた。音楽製作にはMSXだった。しかし、コンピューターそのものに対してのめり込んだのはこのMacintoshを買ってからである。

とにかくGUIの仕組みが面白い。OS自体でこれほど遊べるコンピューターは知らなかった。その前に、音楽用にATARIのコンピューターを購入 していたが、そいつのCPUが同じPowerPCだったため、GUIは初めてではなかった。しかし、マックの場合はその自由度および先進性がずば抜けてい た。

寝る間を惜しんでマックと戯れているうち、印刷会社や病院からマックのメンテナンスを頼まれることになった。マック自体が少ない状況で、それをメ ンテナンスできる人物が田舎には殆ど居なかったので出来たことだ。そこで、マックのメンテナンスを写真屋の一部門として立ち上げた。

メンテナンスを始めたきっかけもスイッチオンの結果だ。写真屋に写真を頼みに来る人が居る。その受付の名前を見てマックを使っていそうな企業名が書いてあるとこちらからたずねてみる。

現在もメンテナンスの仕事が続いている病院の先生が来たときの会話。

「あ、病院の院長先生ですね。先生の所でマックとかお使いになってませんか?」
「お、今のシステムはマックで作ってるけどさ、おれ、全然わかんないんだよな。」
「そうですか?私マックのことなら結構詳しいんですよ。もし困ったことがあれば連絡ください。」
「そうか、イヤ実はうちの病院にも詳しい奴が居なくて、困ってるんだよね。今度見に来てよ。」

こうなればしめたものだ。まず、相手の状況を聞いて現場居に出向く。問題点を確定して、まずは無料で、それを解決する。この時点では、相手の信頼を受けられるようにするわけだ。

元々それが本業ではないために可能なやり方だ。

そのうち、少しずつ料金を相談していく。ある程度信頼関係が出来れば、正規の料金も請求可能になっていく。熊本という土地柄で、形の無いものにお金を払う事に抵抗があるのは重々承知しているから、このやり方を執った。兎に角、時間が必要だ。

一度信頼を得ると、そこから口コミで仕事が広がっていく。

「今度、○○先生のところにも行ってくれよ。あそこも詳しい奴が居なくて困ってるらしいんだ。」

メンテナンスの場合、あまり数を増やすと対応が不可能になる。ここは、きっかけだけ作って、後は状況にあわせて仕事を組み立てることにする。あくまでも基本は写真屋なのだ。

そうやって幾つかのクライアントがつき、メンテナンス業も軌道に乗り始めたときまた、あるアイディアが浮かんだ。

つづく

フリーランスの作り方007

番組制作が終わる頃には音楽の方が忙しくなってきた。自分のプロジェクトとしてのBrain Weatherの方も今は無きブルージャムで初ライブを行うことにした。基本的には、カラオケにギターだけでやる。

そうなると、どうもビジュアル的に面白くない。その頃東京のインクスティックで見たホルガー・ヒラーのライブに触発され、映像を使うことを思いついた。

当時、アマチュア・ミュージシャンで映像を使ったライブをやっている奴は周りに居なかった。

当時の非力なコンピューターでワイヤーフレームの簡単なCGを作り、実写と組み合わせてこれまた簡単なビデオを編集して、演奏のバックにプロジェクターで流した。

その映像と音をリンクさせるためにオケはビデオの音声出力をイコライジングしてそのまま使う。このライブにはテレビ業界関連の友人が多数見に来てくれた。

これ以降、音楽に関してはまたまた沢山の出来事が生まれるのだがそれは今回はちょっと割愛。

しばらくして、有機生命体というバンドを結成するに至った。
この時期は、全国ツアーして遊んだり、色んな事をする。しかし、あまりに色んな事やりすぎてあまり覚えていない。

そうこうしているうちに、実家の写真屋で写真の加工をするためにMACを買うことにした。このMAC(Power Mac 8100 Qardra)からまたもや思わぬ副業へと発展して行く。

つづく

フリーランスの作り方006

ローカル番組の製作会議では、様々な企画を考え幾つかは採用された、基本的に企画のみでそれ以降はディレクターが引き継いで進行していた。例えばこんな企画である。

「熊本弁公開講座」

イメージは中州産業大学のタモリみたいな教授役が出てきて、熊本弁を解説するのだ。後ろには黒板、前には出演者が机に座り講義が始る。

「今日は『あたじゃー』の使い方を勉強します。それでは、私の後について復唱してください。『あたじゃー文句ばいうな』はい!」
「あたじゃー文句ばいうな!!」

てなぐいあいだ。

それら企画進行には飽き足らず、しばらくは出演していた。『データ』君と言う役で、色んなランキングのパソコンオペレータである。基本的に言葉はしゃべらない。黒ぶちメガネに七三分け。まあ、下らないといえば下らないアイディアだが、自分では結構気に入っていた。

そうこうして半年ほど遊んでいると突然プロデューサーが私に言った。

「あ、そーだ。君音楽作れるんだよね。今度番宣用の曲必要なんだけど。やってみる?」
「はい、やります。」

すでに音楽のことは忘れかけていた時期に、音楽が仕事として動き始めた。全く予想もしていない事態である。

それ以降、年間にすると相当な本数のCMソングを作る羽目になっていく。先にも書いたが、私自身は、音楽の基礎的知識さえ持ち合わせていないし、楽器も殆ど弾けない。しかし、「やる」と言ってしまったのだ。しかも、CMソングというのは、簡単ではない。

自分のやりたい音楽なら誰にだって出来るが、クライアントやディレクターの望むスタイルの曲を作らなくてはいけない。

例えば熊本日日新聞社の「みなよむにっこり」というCMソングを作ったとき、ディレクターから言われた。

「あ、今回は、ハワイアンかカントリーで行きたいんだよね。」
「あ、分かりました。ハワイアンかカントリーミュージックですね。」

全然わからない・・・・分からないのだが無理やりつくる。しかも七転八倒しながらつくる。

「があああ、出来るわけねええだろー。ハワイアンなんて無理だー。どうせ、俺には才能無いんだ!!だめだ、おれはだめ人間だー」

などと叫びながら作る。そーすると案外出来たりする。無理して作るので、そのズレみたいなものが逆にインパクトに繋がることがある。ディレクターもそれを狙っていたらしい。

ま、そんなこんなで、番組製作、音楽製作と副業は増えていくのだった。

つづく。

フリーランスの作り方005

スタジオに入り、MCの方に挨拶して、簡単な打ち合わせをして収録が始った。

「今日は、自主制作で音楽を作っている浅川さんをお招きしました。」

グレーのスーツを身にまとい、メガネをかけた7/3別けのサラリーマン風のいでたちの私がフォークギターを抱えて登場した。

「浅川さんは、Brain Weather Projectというバンドをやっているそうですが、メンバーは何名構成ですか?」
「はい。メンバーはドラムと、ギターとベースとシンセとパーカッション合わせて1名です。」
「1名?」
「はい。バンドは1名です。私だけです。私の音楽性を理解できるメンバーが居なかったので現在は私一人です。」

当時多重録音で一人で全部やっているのは少なかった。

「一人でどうやってバンドやるんですか?」
「あー、やろうと思えば出来ます・・・。」

というような会話が続き、16mm(オープンテープ)で、持ち込んだカラオケをバックに演奏が始った。

「それでは、失恋のどん底で生まれた『Under the Complex』という歌を歌っていただきましょう」

最初は、フォークソングみたいな歌い出しだが、徐々に乱れてくる。最後は、暴れ始めMCが止めに入って、つまみ出されるという構成。

まあ、擬似的ハプニングだ。

当時からまともな音楽をやっていたわけではない。

この出演がきっかけとなり、後日ディレクターから電話があった。

「浅川君。君放送に興味あるんだろ?テレビ番組の制作ブレインで手伝ってくれない?」

それが、最初の本業以外の副業の始まりだ。

翌日から週一の製作会議に参加して番組の企画をすることとなった。

正直、放送には興味があったが、業界に入る気は全く無かった。基本は写真屋であり、あくまでも遊びだったのだ。

つづく

フリーランスの作り方004

初めて会ったディレクターは女性の人だった。テレビ局のロビーで、ソファーに腰掛け、話を始めた。

「あ、どうも。初めまして浅川と申します。」
「どうも、ディレクターの五反田です。」
「あの、今回、自主制作テープの宣伝をしていただけるという事で来たんですけど。実は、そのコーナーの進行表を書いてきました。」
「え、進行表ですか?」
「はあ、Qシートです。これなんですけど、ちょっと見ていただけますか?」
「はい・・・・。」

相当に面食らっている。当然だろう。単なる情報コーナーの出演者との打ち合わせのつもりで来たにも関わらず、相手が番組進行表と企画書を持ってきている。あり得ない・・・。進行表と企画書を一瞥した彼女は続けていった。

「あの、ちょっと待ってもらえます?制作責任者呼んできますので・・・。」

彼女は、いそいそと書類をまとめロビーの奥に消えていった。ほどなくして、細めの男性を連れて戻ってきた。たたずまいはカジュアルだが、眼光がす るどい。どうやら、その番組のプロデューサーらしい。かれは、軽く挨拶するとディレクターから渡されたQシートに目を落とし読み始めた。

しばらく、間があき、彼が口を開いた。

「ふっ、面白いじゃない。やってみれば?」
「あ、ありがとうございます。」

それが制作会社のトップの竹崎さんとの出会いとなった。

私は、その番組の一つのコーナを潰して、持ち込んだ進行表に沿った宣伝をする事になった。

つづく