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‘それはそのとき’ カテゴリーのアーカイブ

僕らはみんな生きている生きているから歌うんだ

僕らはそれぞれの人生を生きていて、それはそれぞれがそれぞれの歌を歌っていることに他ならないね。

だとすれば、この世は壮大なシンフォニーであると思うんだ。

その響きが存在を存在たらしめているんだなぁ。

音楽はだから僕らの存在に訴えることが出来る。そーゆーものだと思う。

僕らの心はそれぞれのフィルターを通して、現実を見ているけど、音楽はそのフィルターを超えて届いちゃったりするんだね。

心の歌を僕らは歌い続ける必要がある。そんなことをぼんやり考える夜なんだ。今日は月がきれいだ。

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リアリティーとは

我々が認識できるリアリティーとは何か?

どうも、最近色んな人と話してみて気づいたのだが、我々が「現実」と思っている世界は実は単一のものではなく、それぞれが感じた「世界」としてパラレルに存在しているのではないかということだ。

簡単に述べるなら人それぞれが認識している「現実」とはそれぞれ違うということだ。

ややもすると、私が見ている世界と彼が見ている世界は同一のものであると誤解してしまうが、そうではないような気がする。

対象への捕らえ方によって、「現実」そのものは大きく変化する。例えば、不条理な出来事が起きた場合、受け取り方で、その「現実」というものは大きく変わる。人によっては、単なる偶然、人によっては霊的な力であったりするのだ。

つまり、科学的な論点から物事を計る場合と、なんだか分からないが精神的尺度で物事を測るのでは、その有り様自体が変わるわけだ。

元来物事自体が相対的にしか存在しないのであれば、その出来事自体を絶対的な尺度から規定すること自体意味が薄い事でもある。

でまあ、重要なのは、この価値観の違いというか、「現実」そのものが多様に存在し、自己の「現実」が絶対ではないという事実だ。

我々日本人は単一民族で単一の言語を話し理解しているように思いがちだが、実は別々の言語を持ち、それぞれがバラバラの「現実」を生きていると考えたほうがいいようだ。

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呼称とはなんだ?

今日は専門学校の卒業式。卒業式はまあ、卒業式なわけで無難に終ったわけだが、そのあと学生達が企画した卒業パーティーというか飲み会に参加して来た。

普段学校では、あまりプライベートな話もしなかったんだが、去年あたりから「ま、いいか」という感じで、多少昔のバンドのことやら、スピリチュアルな話題を話して見た。

その性か、結構学生の皆さんとも仲良くなれたのだが、本日は卒業後ということもあり、普段の馬鹿話を全開でやっていたところ、「笑いすぎて頬が痛いので、止めて下さい」と、学生から窘められた。

「俺、先生と呼ばれるの本当は嫌いなんだよね」と、言ったところ「じゃあ、浅川さんでいいですよね。なんだ、もっと早く行ってくださいよ。だったらこっちだって気楽に話せたのに、就学中は話す機会なかったっすよね」等と言われた。

そーなのである。

未だに「先生」とか言われるのは苦手だ。

ま、言うほうは単に記号としての「先生」であり、そこに意味はない。それは分かっているんだが、それにしてもまだむずがゆい。

「先生」とはもっと偉い人のことを言うような気がしてならない訳だ。よし、来期は生徒に「先生」と呼ぶことを禁止してみようかな。「浅川さん」ないし「浅川君」あたりでどうであろう?たまには「あさかわ」と呼んでもいいし、「あさ!」でもいいかも。

名前がだめなら「班長」とか「隊長」または「キャップ」ってのもかっこいいな。む、無理ですか?

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この人は強いとか弱いとか

まあ、他人は何とでも言うわけですが、何に対して強いのか何に対して弱いのか人それぞれですねぇ。

でまあ、「強し」と「毅」というのはちょっと違う訳ですね。「強し」という言葉の裏には、脆さを含んでいまして、どちらかというと弱さの裏返しだったりする場合があるように思います。

この本質的に弱さを内包している人を仮に強君と呼びましょう。それに対して、本質的に強さを持っている人を毅君と呼びます。

たとえば、何かの問題が起きたとき、その違いは明確になります。 強君の場合、問題の原因を他者に求めます。「あいつのせいで、おれはこんな被害を受けたんだ。あいつが悪い。」 これはいわゆる自己保身からくる攻撃性ですね。

それに対して毅君は、問題が起きても感情的にはなりません。冷静に物事を判断して、解決策を見つけます。「この問題起きたのは、自分にも問題があるからだ」と考え、どんなに不条理な問題でも自分の糧にします。

  • 強君は、他人の目を気にします。自分は人からどう見られているのかどんな服を着るのかいつも気になります。
  • 毅君は、他人にどう見られるか気にしません。ファッションも他人が不快に思わない程度で構いません。
  • 強君は、話題の中心に居ないと気がすみません。
  • 毅君は、みなの会話が盛り上がるように気を配ります。 強君は、気分にムラがあります。
  • 毅君は、安定しています。

とまあ、いくらでも書けますが、出来れば私も毅君になりたいですわ。

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基本的にはマゾである

物事を考える場合にサディスティックに考えるのかマゾヒスティックに考えるのか自分の場合どうなのか分類してみると、圧倒的にマゾヒスティックに考える場合が多いように思える。

つまり攻撃的か受身なのかということだが、何か問題が起きた場合、攻撃的になるということは、自分にとっては敗北に等しい。いわゆる「怒ったら負け」という感が強いのだ。

従って、トラブルの最中でも自分の感情は強く抑える事が多く、ほとんど感情的になることが少ない。しかし、怒っていないからといって、自己の意思を通さないということではない。

時間をかけてゆっくり方向性を変化させる。最終的に自分の思った方向へ向けばいいと思っている。

このやり方では、相当な我慢強さも要求されるが、この世はままならない事も多く、それらに一々怒っていてもエネルギーが枯渇する。自分が我慢できるのであれば、どこまで大丈夫なのか試してみるのも悪くない。

しかし、最後には結局自分の判断通りに物事を進めてしまう。ある意味、傲慢なやり方だ。流されつつ、流れを強引に変えてしまう。

それって、究極の我侭である気もするが、どうもこのやり方以外できないようだ。

だが、受身であるということは案外厳しい局面も踏んでしまう。一人で運転している時や、一人で仕事していると突然「うりゃーーーーーーー」と叫んで頭をかき回している。

ふふふふふ、そういう時は近寄らない方がいいぜ。多分、ヘッドロックしてブレンバスターかけたりされるぞ、ひっひっひ。

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「信用」と「期待」

誰かに期待することは簡単だが、誰かを信用することは難しい。

人との関係性において、信用するという行為は重要だ。「信用」を辞書で繰ると、「確かなものと信じて受け入れること」(Yahoo辞書)と書いてある。

それに対して「期待」とは、「あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。」(Yahoo辞書)となっている。

これは似ているようでぜんぜん違う。 片や「信用」とは自立的な行為であり、自己の責任においてその結果を受け入れる事が前提となり、片や、依存的であり、他者の行為で自分の利益を心待ちにする行為となる。

違うなぁ。意味がぜんぜん違う。従って、 「私は君のことを信用してるから、仕事で業績上げることを期待してます。」というような使い方は矛盾を含んでいる。

我々は弱い生き物で、信用したつもりでも、相手に期待を持ち、その心根が思わず言葉に現れる。気をつけないといけないな。 「信用」と「期待」はまったく別のものだ。

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しかしまあ、自分の道は自分で決めるのか?

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さて、自分の道というのは自分で決めているものでしょうか?それとも環境による影響によって、何者かに決めさせられているのではないのか?

このへん難しいですな。

なぜなら、我々は相対的な存在であり、自立的に生きるといっても結局は、パラドックスの上にしか成り立たないわけね。

ええと、簡単に言うと、どんなに自立しようとしても、周りとの関係でしか自分を計る基準を持っていないということね。もし、世界に自分しかいないとすれば、何が正しくて何が間違いか?そんなことわかんなくなるわけよね。

となると、自分の判断は、果たして本当に自分の判断なのか?って問題にぶち当たるわけよ。それらは結局、関係性の中での実に流動的で、不確実なものであるわけね。ま、物事の本質は流動的であると言うのも事実だけど。

流動的っちゅうか「振動」という感じもするね。存在するということは「振動」するって事でもあるからさ・・・だって、分子って大抵ブラウン運動してるしね。

べ、別に仕事に飽きてきて、思考の迷宮で遊んでるわけじゃないぞ。歯磨き体操のDVDオーサライズが終了して、見直していたら郵便番号間違ってて、もう一度作り直しなんで、投げやりに成っているわけでもないぞ・・・・・。うーーー。

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相対的な存在

自己と環境において、そのパースペクティブの保ち方というのは結構難しい。「我」が絶対唯一の存在であるかというと、そうでもなく、全体の存在と織り成す一部でもあるわけで、その上で、「我」は我以外の存在とどう関わっていくのか?

難しいでござるよなぁ。

それらのファクターは、人間に関わらず物質にも言えるし自然とか概念だったり、仮想なものだったり、自分の立脚点を意識していないと、どんどん流されていく。

自己を保つというのは、実はパラドックスの中にあり、ややもするとアンビバレンツな状況に陥るわけだ。それらの中から自己の在り方を選択し、実践していくのが、「我」の個性に他ならない。

となると、「選択する」という行為が、「我」のアイデンティティそのものなのかなぁ?

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むかつくマスコミ

最近のマスコミの報道で「○○という」等の語尾にムカつく!

「幼少時代のトラウマがあったという」
「興奮を覚えたという」

誰がその言葉を言ってるんだよ?これって発言の主体を曖昧にして、責任逃れをしているに過ぎない。

「私が云ったんじゃないですよ。その他大勢の人が云ってるんです。私には責任はないですからね。他の人の発言ですよぉ。物の真偽は知らないんですよ」

と、云ってるわけだ。アホじゃねえのか?ジャーナリズムって何なんだよー。そんな曖昧な発言を電波に乗せるなよ!潔くねーんだよ。プンプン!

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