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‘それはそのとき’ カテゴリーのアーカイブ

親のカルマ子のカルマ

親子という関係を続けていると、たまに思うことがある。

自分は子供を自分の分身としてみているのではないのか?

これは、どーゆーことかというと、元来子供は自分の子供であっても一人の独立した存在であり、幼い時に庇護は受けるが、やがて親元から巣立ち自立した存在にならなくてはいけない。しかし、一度「親」というスタンスで我が子を見てしまうと、そのスタンスから抜け出すのが結構難しい。

どこまで、庇護するべきか?どこから自己責任は問うのか?

この境目を間違えると親にとっても子供にとっても不幸が訪れる結果となる。 往々にして「親」は子供に「こうあって欲しい」とか「こうあるべきだ」と教える訳だがその判断基準を自分の中にきっちり持っておかないと子供は混乱する。しかも、その判断基準が、世間体とか常識なんて言葉で表現できるものであれば、子供はすぐにその嘘を見抜くだろう。

従って、自分の中における価値観、または物事へのスタンスを認識しておかないといけない。

そうすると、逆に極端なことを子供に言ったとしても子供は不安がらない。もちろん、それを押し付けては駄目だ。「私の立場としてはこう思う」とか「私ならこうする」てな具合ならいいのだ。

道は示すが、決断は本人にさせる。これが基本だ

たまには間違った判断を下すだろう。しかし、それでいいのだ。大人になって間違うよりましだ。

例えば女の子がフリフリのワンピースを買いたいと言うだろう。そのとき、「あなたには似合わないから別のを買います」といってはいけない。似合わないとわかっていても買うという事が決まっているのなら似合わないワンピースを買うべきだ。実際着てみて子供はその「似合わなさ」に気づくかもしれない。そーすればしめたものだ。気づかないなら気づかないでそれもまたよし。

そーこーしているうちに、自分の事は自分で決めるという、当たり前のことができるようになるのだ。

この「あなたには似合わないから別のを買います」というのが実は親のカルマ(業)なのだ。

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日本は西洋か?東洋か?

BALI

友人から紹介したいという大学生が居ると言うことで夕食をとりながらお話を聞くことにした。

高校時代からウェブを作っていて、今はFlashの製作などを趣味的にやっているとの事。レベルは高い。

そんな彼に言ったこと。

「仕事へのスタンスには2種類あると思う。趣味を仕事にするのか?仕事を仕事と割り切って趣味を続け時期を待つのか?どちらを取るにしても大学4年 間をそれを見極める期間にするといい。それと同時に海外に行きなさい。十代で海外、特にアジアを体験すると、自分の価値観が日本という狭い世界に囚われて いることに気づけるかもしれないよ」

てな、内容だった。

バリでこんなことがあった。ウブドのホテルのテラスでお茶していると日本人のおばさんが隣の席で話し始めた。

「バリは好きだけど、通りは花やお米なんかが散らばっていて汚いわね。やっぱり、リゾート地のハワイの方がきれいだわ」

バリではヒンドゥーの儀礼にしたがって各家の門の近くに毎朝お供え物の花を置く。その花やお米などが散らかるのだ。お米はそのまま犬たちのご飯になる。その様子を見て彼女達は「汚い」という。

私はその様子を見て逆に美しいと思う。プラスチックや金属のゴミに比べたら何と精神性の高いゴミであるか?

そのことに気づくことのないおばさんたちは、多分不幸だ。日本という国にて、日本の価値観に縛られ・・いや、日本独自の価値観ならまだましかも知れないが、西洋ナイズされた中途半端で偽物の価値観に縛られ、本質的な物事を見る目をなくしてしまっている気がしてならないのだ。

そんな大人には育ってほしくないなーと思うのだ。

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生き抜く力とは?

私みたいなフリーター生活をしていると、全ての事を自分で決める必要が出てくる。

今後何をして何をしないのか?いつも考える必要がある。

誰かに道を指し示されることもなく、誰かを縛ることもなく。自立した道を模索する事が義務付けられる。そこには不安もあるが、今を生きる実感も存在する。

この「今を生きる実感」が欠落している若い人も多い。それは、教育のシステムだとか、社会だとか色んなあり方に起因しているのだが、非常に大きな問題になっていることも確かだ。

以前にも書いたが「スイッチオフ」のまま大人になってしまった人が多い。

文句を言っているのではない。スイッチオフのままで、幸せならそれに越したことはない。しかし、周りを見回すと幸せに繋がらない場合が多すぎるのだ。それがちと悲しい。

今日はあるクライアントから電話があって、またもや無理難題を頼まれそうになった。しかし、すでに70近いクライアントはエネルギッシュだ。次から次にアイデアを考えて、実行に移そうとする。その2/3は失敗するのが目に見えているのだが、残る1/3が成功ないしそこそこの結果を導き出す。

このようなタイプには「生き抜く力」が備わっている。我侭で自尊心が強く、無鉄砲である。しかし、嫌いではないなぁ。我侭というのは、物事をなす強い意志の表れでもあって、自己実現をするための方便でもある。

考えすぎて自滅するより逞しく生き抜く力を持っている。関わると大変なんだが、結構可愛い。

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子供と二人で旅行すると

子供によってはとても面倒くさい。あれを買ってとか、あれを食わせろとか、あそこで遊ばせろとか・・・・。ま、親なら誰しも経験しているはずだ。

しかし、自分が子供だったときの事を考えてみると、親に物をねだった記憶はほとんどない。実際にねだったりすることはなかったようだ。どうも、長男もその性格を受け継いでいるようで、一切何かをねだらない。

本当は、ほしいものがあるのだ。しかし、子供ながらに親に気を使っている。それが分かっているとなんだか、余計にその気持ちが分かってしまって切なくなる。

だから、どこに行きたいか?何が食いたいか?何をしたいのか?一々聞くことにした。そうすると、「僕はどこでもいいよ。でも、できれば海がいいな。」などと、意見を言い始める。

あ、そうか、私はもっと子供達に聞くべきなんだ。親の判断だけで、これが子供にとっていいんだと、決め付けるのはよろしくないのだと、改めて思ったのであった。

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なんで分かってくれないの?

「なぜ私のことを分かってくれないの?」と、苦しんでいる人は多いように思う。

しかし実は、誰かに理解して貰うということが重要なのではない。理解される努力を続けるという事の方が重要だ。分かって欲しいのにそのことを相手に伝えず、気持ちの中で鬱屈しても意味がない。

また、理解して欲しいという感情は理解できるが、「理解できる」という前提が問題だ。多分我々は他者の誰も理解など出来ない。同じ環境で育ったとしても他者の感情を理解など出来ない。

出来ないからこそ、我々は努力する。努力するからこそ許せる。その努力を放棄したとき、本当の孤独が訪れる。

我々は無明の中に生きており、絶対的な孤独のなかに浮いているということを思い知る必要がある。そーすると、ちょっとした良き事でも、その有難さが自覚できるだろう。

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他人から見るとなんでもない

事で、腹が立つことがあると思う。

実に他愛のない事なのになぜがむかつく!

こーゆー場合は大抵自分のコンプレックスに起因している場合が多い。従って、そんな時は自分のコンプレックスに気づくチャンスでもある。

「なぜ?自分はこの事でこんなに怒ったんだろう?」

怒りが静まった後に考えてみるといい。そうすると、思い当たる節が見えてくる。それは、自己愛の裏返しだったり、自己保身の為だったり・・・。

それらの事で、怒ってはいけないという事ではない。なぜ、そんなに腹が立つのか自覚する必要があると言うことなのだ。

そうすると、多くの問題の原因が内側にあることが分かる。

しかし、私は「最瞬間制約(漢字は違うが)のテレビCM」を見るたびに非常にむかつく・・・うーん・・この場合のコンプレックスって何?

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スイッチオンのやり方

前の日記に関連してなぜスイッチをオンにしたのか?またその具体的なやり方を書いてみよう。

具体的にオンにした時期というのは中学生頃だったと思う。小学生のときの私はとても大人しく、クラスでもあまり目立たない生徒だった。人前に出るのが極端に嫌で、兎に角、集団の中では、引っ込み思案だった。

それは過剰な自意識がそさせていたと思う。そのうち、軽い苛めが始った。

「お前を男らしくしてやる」

等というような、事を言われ、数人の悪がき連中から呼び出され、色々なことをさせられる。元々男性性が薄く、どちらかというと中性的な部分を持っていたため、そんな感じになったのだと思う。

中学になって、環境が変わったこともあり、自分でもその状況を変えるために何をしようかと悩んだ。それが「スイッチオン」だ。

具体的な方法とは、

「やるかやらないか?悩んだときは『やる』を選択しよう!」

という内容だった。つまり、「動くか動かないか?どっちにしようかな?」と悩むくらいなら「動く」を選択する。もちろんリスクは考える。でも「これできるかな?出来ないかな?」と思うぐらいだったら「出来る」と思ってやればいいじゃん!!ということだ。

もちろん、そのために失敗も数々やっている。しかし、これらの失敗は必ずフィードバックして自分の肥やしになる。

失敗を怖がるが故に自己の成長を止めるなんて映画「ブリキの太鼓」じゃねえんだから、そっちのほうがダメ人間だ。

このことを一つだけ決めてから、色んなことが大きく変化した。それまでは、あまり付き合いの無い友達から誘われて断ることの多かった遊びもにも行くようになった。

行ってみると結構面白かったりする。

やった事の無い事でも、興味があればまずやってみることにする。面白い。たまには面白くない。それは自分の想像を超えて現実と向き合うことに他ならない。

これらのことを実践し始めると、自己のパーソナリティーがより分かってくる。基本的には一匹狼だ。いや、この場合『狼』という表現は違うな。ま、アウトサイダーであることには違いない。

それが分かっていても、後に製作会社に入ってみたりしている。これは予想通り長くは続かなかった。

ということで「スイッチオン」とは、ポジティブ・シンキングのことなわけです。

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極端なスタンス箪笥

ここの所いろんな相談事をよく受ける。

具体的な仕事の相談から、漠然とした将来への不安まで多種多様だ。元々アウトサイダーな自分であり、それらに関して的確な受け答えが出来ているとは思わないが、多分、彼らは一般的な常識に囚われた答えは期待していないのだろう。

結局のところ、他人の意見というのはその世間的スタンスや人生におけるスタンスが明確でユニークであるほうが、分かりやすい。

あの人は、こんな人だからこう答えるだろうという予測が立てやすい。物事を論理的に考える場合は、観測者のスタンスが明確でないと分かりにくくなる。

ある意味、そのスタンスが極端であればあるほど、視点も明確となり、一言として参考になるのかも知れない。

いうなれば、客観性よりも主観的な意見の方が、参考となる場合が存在するのだ。

まあ、全ての問題が理論的に解決できるのであれば、こーゆー事も無いのだろうが、そうはいかないのが人の世であり。また、世界であるのかもしれないね。

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コミュニケーションの難しさ

最近、「人それぞれの現実はパラレルに存在する」というようなことを書いているが、それを裏付ける様な事実として、コミュニケーションに関する問題が挙げられるだろう。

自分の価値観や視点は、思っている以上に他人とは違う。したがって人と話をするときは、相手の価値観や方向性を想像しながら組み立てる必要がある。

分かっていてもこれがなかなか難しい。

どうしても言葉は自分の価値観に沿って派生するので、その言葉は、自分の想像力の限界を超えることが出来ない。

よって、他人の価値観をいくら想像しながら言葉を選んでも、正確に伝わるはずも無い。

基本的に我々はディスコミュニケーションによってコミュニケーションを行っている。コミュニケートするということは実は、幻想なのだ。

その事実を知っている相手となら、楽に事は進むが、意識していない相手の場合、様々な誤解が問題へと発展する。

それでも、我々は「言葉」というツールを使わざろう得ないため、せっせと言葉を紡ぎ出すのだ。

「あなたの言い方がわるい」

という様な台詞は実は相対的なもので、その相対性を意識していれば、案外許せるものだ。

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目に見えない力について

私自身は現実的な人間だと自分のことを考えている。

確かに気功師さんの話や、身の回りに起きる不思議なことは一見すると現実離れしているように思われるが、それは現実が相対的に存在するからに他ならない。

つまり、私が知っている現実と気功師さんの現実は自ずと違うのだ。それぞれがそれぞれの現実を生き、その集合体として全体の現実が形成されていると考えたほうが自然であると思っている。 認識の方向性で、現実は変容を遂げる。

もっと平たく言うと「何を信じるかで現実は変わる」と言うことだ。さらに言えば「願えばかなう」に通じる。 従って、気功師さんの言う現実が自分の現実だとも思わない。自分には何も見えないし、何も感じられない。従ってそれは私にとっては妄想でしかない。

しかし、この妄想でしかない世界も、ひとたび自分自身の立地点が変化すれば現実へと変化する可能性を持っているのも事実だ。 従って、それら妄想を全て馬鹿にして受け入れないというのは、実に硬直した精神でしかないと思う。

もう少し基本的な私のスタンスを突っ込んだ形で述べれば、「目に見えないもの」は見えてはいけない必要があって目に見えない」のではないかと思 う。例えば予知であるとかテレパシーであるとか、それらを与えられていない我々は、逆説的にいうならそれらから自由であるとも言えるのだ。

もし、知ってしまえば、問題を回避できる。しかし、回避するという行為自体が、その人の成長を遅らせる結果となる場合も多い。 分からないから努力したり、傷ついたり、反省したり、苦しんだり、悲しんだりすることが可能だとも思うのだ。それら、一見ネガティブに見える事象が如何に我々を豊かにしているかということも知らねばならないのだろう。