熊本市 DELTA WORKS のメンバーがお届けするCMS制作日記と日常の変なこと
25 2月
物事を考える場合にサディスティックに考えるのかマゾヒスティックに考えるのか自分の場合どうなのか分類してみると、圧倒的にマゾヒスティックに考える場合が多いように思える。
つまり攻撃的か受身なのかということだが、何か問題が起きた場合、攻撃的になるということは、自分にとっては敗北に等しい。いわゆる「怒ったら負け」という感が強いのだ。
従って、トラブルの最中でも自分の感情は強く抑える事が多く、ほとんど感情的になることが少ない。しかし、怒っていないからといって、自己の意思を通さないということではない。
時間をかけてゆっくり方向性を変化させる。最終的に自分の思った方向へ向けばいいと思っている。
このやり方では、相当な我慢強さも要求されるが、この世はままならない事も多く、それらに一々怒っていてもエネルギーが枯渇する。自分が我慢できるのであれば、どこまで大丈夫なのか試してみるのも悪くない。
しかし、最後には結局自分の判断通りに物事を進めてしまう。ある意味、傲慢なやり方だ。流されつつ、流れを強引に変えてしまう。
それって、究極の我侭である気もするが、どうもこのやり方以外できないようだ。
だが、受身であるということは案外厳しい局面も踏んでしまう。一人で運転している時や、一人で仕事していると突然「うりゃーーーーーーー」と叫んで頭をかき回している。
ふふふふふ、そういう時は近寄らない方がいいぜ。多分、ヘッドロックしてブレンバスターかけたりされるぞ、ひっひっひ。
21 2月
以前結構はまっちゃって自分でも焼いていた。普段デジタルな仕事ばかりをしていると、その反動でコントロールの難しい世界に魅力を感じるのかもしれない。
デジタルメディアというのは、キーボードとマウスとで制御する情報の媒体でありそれらを作り上げる我々はその時点において神となれる。
つまり、強い独占欲や支配欲を満たしてくれるメディアでもあるわけだ。従って、その中に埋もれていると外界からは隔絶されたとしても、それを意識することさえ出来なくなる。
いうなればデジタル自閉症みたいなものだ。
ご多分に漏れず、マッキントッシュを手に入れたときは、日がな一日延々とデジタルな新しい世界の世界観に埋もれていた。それは、テクノミュージックが生まれた時、高橋ユキヒロが言っていた
「今は、ヒューマンビートのグルーブと180度違うマシンのビートにシンクロするのが気持ちいい」
というような、感じか。
クラフトワークやディーボのようにマン・マシーンと成ることが、ある意味現実の苦しみから逃れる手段と成っていたのかもしれない。
実生活において苦しみや悲しさが多ければ多いほど、我々はマシーン化して感情を押し殺してしまうのかもしれない。悲しくても泣くことを拒否し、苦しくても声を押し殺して、アンダーグラウンドな世界と同化することを望む。
本当は泣けばいいのだ。本当は叫べばいいのだ。しかし、それをすることが、出来なかった。
陶芸を始めたのはそんな時期だったように思う。
コンピューターは自分の知識と理性で制御できる。しかし、「火」は、それだけでは制御不可能だ。そこには、「感」と呼ばれる総合的な判断力や、偶然さえも味方につけるほどの意思みたいなものが必要とされる世界。
面白い。
何度焼いても思ったように出来ない。それが面白い。
正直に言えば、現在の陶器の美的基準は、千利休の亡霊を抱いたまま存在している。しかしこれがまた、なかなかラジカルでいいのだ。
先日、寿限無のマスターから頂いた彼の焼いた陶器にも、そのラジカルさがある。ロクロにしても、整形にしてもプロではない。しかし、そこには、一貫した「美へのスタンス」が感じられ、使っていて楽しくなるのだ。
サンキュー・マスター。
20 2月
先日のペマでオーラ写真をまたまた撮影していただいた。ま、オーラは相変わらずでかくて黄色を中心に光っていたわけだけど、その鑑定していただいた人が
「あ、なんかすごいですね。あ、これは・・ええとあの、私、浅川さん見て、あの何か人と違うもの感じてたんですけど、確信しました。ええと、言いにくいんですけど浅川さんって宇宙人じゃないですか?わたし・・そうかなっと思ったんですけど、きっとそうです。」
・・・・・・・・・・
うふふふふふ。今度は宇宙人になってしまいました。さらにその日、色々見える人からは、「さっきから浅川さんと話してると、平賀源内って名前が出てくるんですよ。浅川さん平賀源内じゃないですか?」と尋ねられた。
どはははははは。
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中山さんからはチベット関連で憤怒神がバックに居ますねって言われた上に、ペマでの前世占いでは「国民を間違って皆殺しにした霊的指導者」と言われ、ますます混迷の度を増す私の正体であった。
13 2月
先のカルカッタでのライブは、東京から越してきて1年ほどたった時だった。
「はじめましてKEITAさん」
「あ、どうも」
「あのわたくし、音楽などの仕事もしているんですが、なかなか今日のライブ良かったです。それで、音響などの機材も持っていますので、必要があればPAのお手伝いなどしますよ。」
といった会話からKEITAとの付き合いが始った。
それからというもの、熊本各所で行われるライブの時には必ずPAやレコーディングのお手伝いをする事となった。
小さな漁村の一角にある彼の家には、電化製品がほとんどない。テレビですら最近までなかった。ご飯は土間にある釜で炊く。料理は地元で獲れた魚中心で基本的には菜食である。庭には家庭菜園があり野菜を作っている。
時間が出来ると彼の家を訪ねては、テクノロジー・ストレスを治療するような事が度々あった。何もないのである。何もない家で一日中何もしないのである。たまに、KEITAの太鼓を借りて海辺に出て波の流れを見ながら太鼓を叩く。実に、贅沢な時間だ。
彼の生き方を自分は真似できない。また、するべきではない。彼はジャー(ラスタの神)から選ばれた人物なのだ。自分とはまったく違う価値観と時間軸で生きる彼であるからこそ、私は彼を尊敬できると言える。
ただ、その本質的な部分で、やはり繋がっているのだろう。彼とは今後も友人であり続けると思う。
PS.KEITAのCDを視聴出来るサイト見つけました。
http://www.awa-muse.com/music/healing.html
視聴にはリアルプレヤーが必要です。ちなみに、このCDのブックレットの写真の半分くらいは私が担当しています。
11 2月
そのバガから告げられた予言とは
「お前に特別なラスタマンの秘密を伝えよう、いいか、今から1ヵ月以内にジャマイカに来るのだ。これはジャー(神)のセットした流れなのだ。逆らってはいけない。わしはお前を家族のひとりとして迎えよう。そして、わしの知ることは全てお前に教えよう。必ず来るのだ。いや、来なければならない。」
その後KEITAは、その予言のとおりジャマイカに渡り、ジャマイカにてラスタの生活をはじめる。詳しくは彼の書いた「シンクロ・バイブス」という本に出ている。ジャマイカでの生活は、我々の想像を超えた様々なことが起きるのだが、詳細は省かせていただく。(だって、長いんだもん)
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=33113
今は廃刊になったシンクロ・バイブスだが、上記で復刊の動きが出ている。
最終的にどうなったかというと彼は、人造人間になって帰国するのだ。本人の言葉を借りれば、「ジャマイカの生活で、体質が変化しリンパ系の働きが活性化して、原始人の様な体になった」ということだ。うーん。分かりにくいな。つまり、視覚、嗅覚、味覚等の五感が鋭くなり、それまで感じられなかったいろんなものが感じられるようになったという事。
そのため、東京に戻ってきてまず感じたのは、空気の汚染「東京の空気臭いんだよ」との事、「水も最悪」との事、「こりゃあ東京には住めない」というのが最終的な彼の結論だった。
そこで、天草で神官をしていたおじいさんの住んでいた家が空き家で天草にあるのを思い出し、家族そろって越してきたのだ。
11 2月
もうかれこれ15年来の友人のKEITAについて書きましょう。
彼と会ったのは、今はなきカルカッタというカレー屋さんの2階で彼がやったライブを見たのが最初だった。そのライブは民族楽器を彼が一人で演奏するというもので、いつ曲が始ったのか終わったのかも定かではないくらいのゆるいライブだった。
あまりにゆるくて眠りそうになったが、その当時は寝てはいけないと思い、一生懸命目を開けていた。ライブ終了後色々話してみるととても面白い。
彼は日本人としては初めてジャマイカのオリジナルラスタマンと親交を深め、ラスタの精神を布教するためにラスタマンになった人だったのだ。
さて、ここで、ラスタについて少しだけ説明しておこう。
簡単に述べるとラスタマン(ラスタファリアンとも呼ばれる・・レゲーのオジサンとはちょとちがう)とはジャマイカで起こったラスタファリズムという思想活動というか宗教に近い自然主義的な運動を行う者で、西洋の物質至上主義的な側面をバビロンシステム(砂上の楼閣)と呼び、自然への回帰を唱える戦士なのだ。その中でも、ボブ・マーレーは代表的なミュージシャンとして有名である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
詳しくは上記ウィキペディアをご覧ください。
元々彼は東京出身で、普通の仕事をしていた。しかし、運命的な出会いによってラスタの世界に入っていく。
当時、広告関連の仕事をしていた彼の元に第1回目のレゲーサンスプラッシュにやってくるレゲー・ミュージシャンの身元引受人をしてくれとの話が来た。そこで、彼はミュージシャンの世話をすることになった。
そのミュージシャンの一人オーガスタ・パブロとともにやってきた呪術師というかグルというかお抱え薬草医師のバガとの出会いによって彼は思っても見ない方向へと導かれ始めるのだ・・・・。
ということで、なんか映画の予告みたいになってきたな。続きはまた明日。
6 2月
誰かに期待することは簡単だが、誰かを信用することは難しい。
人との関係性において、信用するという行為は重要だ。「信用」を辞書で繰ると、「確かなものと信じて受け入れること」(Yahoo辞書)と書いてある。
それに対して「期待」とは、「あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。」(Yahoo辞書)となっている。
これは似ているようでぜんぜん違う。 片や「信用」とは自立的な行為であり、自己の責任においてその結果を受け入れる事が前提となり、片や、依存的であり、他者の行為で自分の利益を心待ちにする行為となる。
違うなぁ。意味がぜんぜん違う。従って、 「私は君のことを信用してるから、仕事で業績上げることを期待してます。」というような使い方は矛盾を含んでいる。
我々は弱い生き物で、信用したつもりでも、相手に期待を持ち、その心根が思わず言葉に現れる。気をつけないといけないな。 「信用」と「期待」はまったく別のものだ。
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