Archive for 6 月, 2006

ラビちゃんがきた

マイサの娘で元の従兄弟のラビちゃんが事務所にやってきた。マイサが本格的に音楽活動を始めるので、マックでの音楽環境の作り方を教わりに来たわけだ。
彼女は、学校に行っていない。いわゆる積極的不登校。マイサの元で色んな経験をして、インドやネパールと日本の間を行ったり来たりしていた。
そうやって、続けていた旅ももはや終息の時期となり、今は土と共に生きる生活に戻ってる。
昔、畑の手伝いをさせられていた時には感じなかった、「生き物を育み、その循環の中に自分も居るという事実を感じることで、今は大きな喜びになっている」というセリフは実に生き生きとした言葉だったなぁ。
僕は、命の本質は「生きろ、そして生かせ」だと思う。
この「生きろ」には、自分をしっかり持ち、自分のやり方でよく生きるという意味、そして「生かせ」は自分以外のものを「生かせ」という意味だ。
一見すると、「生きろ」と「生かせ」は相反する側面があるように思われる。しかし、自分勝手に生きるならば、そのつけは自分に戻ってくる。
自分らしく生きながら、周りも生かす(活かす)事をしなければ、やはり意味のない事になるのだ。その場合の「周り」とは人を含めた、全ての生き物をも含むことになる。
さらに明確にするならば、自然(これには人も含んでるよ)のサイクルの中での循環を意識し、その中に在って、それぞれを活かし、自分も活かされる環境を作り上げることが一番大切なのかも知れない。
そう考えると、自分の今の状況というのは、まだまだ、アンバランスだ。少しづつ軌道修正するべきだろう。
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相対的な存在

自己と環境において、そのパースペクティブの保ち方というのは結構難しい。「我」が絶対唯一の存在であるかというと、そうでもなく、全体の存在と織り成す一部でもあるわけで、その上で、「我」は我以外の存在とどう関わっていくのか?
難しいでござるよなぁ。
それらのファクターは、人間に関わらず物質にも言えるし自然とか概念だったり、仮想なものだったり、自分の立脚点を意識していないと、どんどん流されていく。
自己を保つというのは、実はパラドックスの中にあり、ややもするとアンビバレンツな状況に陥るわけだ。それらの中から自己の在り方を選択し、実践していくのが、「我」の個性に他ならない。
となると、「選択する」という行為が、「我」のアイデンティティそのものなのかなぁ?
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