夏である。しかし、異常に暑い。
人は何の為に自己表現をしたがるのだろうか?「私はここに居る」それを叫んでなんに成るのか?時々分からなくなることがある。
確かに自分自身を省みてみても、自己表現とか自己実現とかに躍起になっていたような気がする。恥ずかしい言い方としては、「自分探し」である。
この「自分探し」というのは厄介だ。探すというのなら探す対象である「自分」というものが確固として存在していなくてはならないのだが、それ自体ゆらゆらした陽炎のごとく実体を成していない。実体を成していないから探すのだというのは、理にかなっているようだが、それは間違いの様な気がする。
「探す」という事は見つけ出そうとすることであり、やはり自己の存在が確定していないと出来ない。
となると、探すのを止めた時、そのゆらゆらがもっと見えてくるというか、受け入れられるのではないかと思うのだ。この場合、自己肯定という言葉になるが、それは誰かを「愛する」という事と同義語であることは、先にも書いた。
従って、自分の存在を感じその存在を容認すれば、何も声高に「私はここに居る」と叫ぶ必要が無いという事になる。私たちは現実の中に居ながら現実感を失っている。
remicoさんのブログのコメントにも書いたが、例えば「朝日を見る」それは、生き物として極めて普通の事なのだが、今の様な生活のか中では、それは非日常になっている。そこに現実感は無い。
実は、これらの問題の答えは分かっている。
ただ、いつから実践するのか?それとも実践しないのか?その選択があるだけだ。方法は様々有り、あとは方向を定めるか定めないのか?そういう状態だ。
さあ、明日も早起きして朝日を見てみるかなぁ。
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Comments
はい、あさかわくんの日誌にあやかりまして、こちらも今朝早く草むしりいたしましたです。
もう、猫の手よりもあてにならないこどもの手。
そうです、毎回ひとりで85坪の庭を這いつくばっているのです。
特に夏は恐るべし。
いま、つゆむらさきの群生を目指してるんです。
その前はたんぽぽで。かなり理想に近づいてたのですが、ある時すっきりとしたくて草刈してしまいますと、その時、天敵だったほかの雑草が今度はわがもの顔ではびこりだし、あわててまたたんぽぽを増やしている次第。
ダンボールコンポストもしかり。生ゴミを菌が分解し、アブがうじ虫を生みつけ、うじ虫がアブになり、その成育をねらうすずめが今度は、つがいで急に増えだしました。
庭にも輪廻転生弱肉強食生成流転が展開しております。
85坪あれば、相当野菜が作れるな。
こちらは小さな庭での事だが、それでも雑草の勢いはすごい。とくにそう、つゆむらさきが群生している。もともと、インドアな私の場合、庭弄りなんてやらないが、見るに見かねて少しずつはじめた。
前は、雑草が増えたら除草剤を撒いていたが・・・やはり出来ることなら薬は使いたくない。
何しろ、今の妻が気まぐれで、私の父の力を借りて、トマトやら茄子やらを庭に植えたのは良いが、「蚊に刺されるのが苦手」という大仰な理由で、草むしりをしないため、野菜畑ではなく雑草畑と変化してしまった。
野菜があるのでは、除草剤も撒けない。
すでに野菜の半分は枯れてしまったり、病気になって収穫不能だが、まだ何とか収穫できる物もある。特にバジルはとても使い手がある。
紫蘇も元気だ。トマトも何とか収穫できる。
庭の野菜だからといって、旨いかといえばそうでもない。
チャンとした農家が作った野菜が旨いに決まっているが、その、チャンとした野菜がナカナカ手に入れられないのも現実だ。
まあ、これも何かのきっかけだろうから、今後は、庭での野菜作りを本格的にはじめてみようと思う。とにかく、少しづつ、整理していこう。






おはようさんです。
昨日の夕方7時ごろ素晴らしい夕日に遭遇しました。
いつも自分はこの頃は台所でごはんを作っているものだから、たまたま出かけなくてはいけなくなって、日常の半径を少しずらした場所に自分はいたんですね。するといつも見ているはずの宝満山に夕日の反射が映えて見たこともないような神々しい景色でした。
そんなとき、自分なんてものはあるようでない、幻影のように小さな存在だということが一瞬わかります。
昨日の夜はカテゴリ「フリーランスの作り方全文」、読みました。
開拓者あさかわくんの道のりが、とっても おもしろかった!
なつかしいキーワードがいくつも登場してましたね。
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