気功師さん考

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「我々の周りには奇跡が満ち溢れている」

それは基本的な私の考え方だ。

その奇跡に気づくことが出来る人は幸いである。しかし、その奇跡に気づけない我々がそこに存在している事も事実であり、その気づけないことにはそれなりの理由が存在するのだろう。

例えば、過去世というものが存在していて、そこに関する記憶を我々が持っていたとしよう。そうすると、我々の命が永遠であることを知っている事になる。いや、永遠でなくともやり直しが出来るかもしれないという実感を持っていることになる。

そうなると、この世に関する感覚が変わるわけだ。「今生で出来なくても来世があるさ」的な感覚を持てば、今生で努力する必要性は下がってくる。ゼロから(記憶がない)やり直しているから、本質的に変化も可能だと思えるのだ。

実生活に置いても、記憶が鮮明すぎて困ることは多い。昔のコンプレックスや、失敗の苦しさから逃れることが出来ない。

人は、睡眠中にその日あったことを整理して必要な記憶と不必要な記憶を分類しているのだと聞いたことがある。基本的に、その人の体験したことは脳の中にホログラム的な状態で記憶されている。

従って、全ての記憶が脳に刻み込まれている可能性が高いが、もし、記憶が全て並列に意識化される状態であれば大変な事だ。幼児期のトラウマも最近の出来事も同次元で意識に影響する。これでは、意識の統合が出来ない。

そこにあるのは混沌とした情報の渦であり、カオスである。

記憶は睡眠によって整理され統合され、意識と無意識下に分類される。それによって、記憶は、一定の方向性(この場合意思ね)によってコントロールされるのだ。

しかし、人格に問題があり、そのコントロールが出来なくなると、記憶さえも変化してしまう。

話を戻すと、我々は奇跡を奇跡として認識することによって、その奇跡を持って物事の基本的な判断材料としてはいけないのではないかという事である。「存在の奇跡」「愛の奇跡」色んな奇跡はあるが、それは、我々がその仕組みを知らないからこそ存在し、我々の存在を存在たらしめているものであるが、それと同時に、我々の存在とは次元の違う世界でのオーダーであり、「下位のシステムは上位のシステムが理解できない」という、基本的な命題を負っている。

ちょっとわかりにくいなー。

ま、かんたんに書けば

「あのさ、確かに俺達は俺達がどうして存在してるのか?なんてわかんないんだよね。で、俺達を作った存在ってのがあったとしてさ、それを神って呼ぶじゃん。で、例えばコンピューターが、それを作った人間の事を理解できないように、人間も神の事理解できなくて当然じゃん。だから、‘神様がこういった”とか‘神は怒っている”みたいなこと言うのってナンセンスじゃん。そういう意味では、神は何にもしないと思うんよね。人格神というのは、どうにも俺にはりかいできないんよね。確かにそーゆーのがあったほうが分かりやすいし、面白いんだけど、目に見えないものを人間が見るときは、その人のフィルター、つまり、環境とか価値観で違って見えるってだけだと思うのよ。だから、それによって、自分を動かすより、自分の中の良心にそって動いた方がいい様な気がするのね。そーゆーの仏教では仏性ってよぶんだっけ」

ってかんじかな。

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