陶芸がすき

 陶芸

以前結構はまっちゃって自分でも焼いていた。普段デジタルな仕事ばかりをしていると、その反動でコントロールの難しい世界に魅力を感じるのかもしれない。

デジタルメディアというのは、キーボードとマウスとで制御する情報の媒体でありそれらを作り上げる我々はその時点において神となれる。

つまり、強い独占欲や支配欲を満たしてくれるメディアでもあるわけだ。従って、その中に埋もれていると外界からは隔絶されたとしても、それを意識することさえ出来なくなる。

いうなればデジタル自閉症みたいなものだ。

ご多分に漏れず、マッキントッシュを手に入れたときは、日がな一日延々とデジタルな新しい世界の世界観に埋もれていた。それは、テクノミュージックが生まれた時、高橋ユキヒロが言っていた

「今は、ヒューマンビートのグルーブと180度違うマシンのビートにシンクロするのが気持ちいい」

というような、感じか。

クラフトワークやディーボのようにマン・マシーンと成ることが、ある意味現実の苦しみから逃れる手段と成っていたのかもしれない。

実生活において苦しみや悲しさが多ければ多いほど、我々はマシーン化して感情を押し殺してしまうのかもしれない。悲しくても泣くことを拒否し、苦しくても声を押し殺して、アンダーグラウンドな世界と同化することを望む。

本当は泣けばいいのだ。本当は叫べばいいのだ。しかし、それをすることが、出来なかった。

陶芸を始めたのはそんな時期だったように思う。

コンピューターは自分の知識と理性で制御できる。しかし、「火」は、それだけでは制御不可能だ。そこには、「感」と呼ばれる総合的な判断力や、偶然さえも味方につけるほどの意思みたいなものが必要とされる世界。

面白い。

何度焼いても思ったように出来ない。それが面白い。

正直に言えば、現在の陶器の美的基準は、千利休の亡霊を抱いたまま存在している。しかしこれがまた、なかなかラジカルでいいのだ。

先日、寿限無のマスターから頂いた彼の焼いた陶器にも、そのラジカルさがある。ロクロにしても、整形にしてもプロではない。しかし、そこには、一貫した「美へのスタンス」が感じられ、使っていて楽しくなるのだ。

サンキュー・マスター。


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